昭和の時代の「六本木」といえば、防衛庁とディスコという印象が強烈に残っている。自衛官生活の最終段階で、最初にして最後の航空幕僚監部人事課勤務における活動の場は、六本木の防衛庁であった。一般の航空基地の広さからすれば全く比較にならないが、都心における六本木の防衛庁の諸施設は壮観であった。
空幕人事課における職務を終えて、次の補職でも新しい職務を担うことになり引き続き六本木の防衛庁施設内で勤務することになった。昭和60年8月から4年6月勤務した六本木の防衛庁は終生忘れがたい勤務であった。
1. 中央勤務の舞台となった六本木の防衛庁
《 昭和時代の六本木の防衛庁及びその周辺、現在の市ケ谷台の防衛省と異なって市街地の防衛庁区画に所狭しと防衛の中枢部が立ち並んでいた。》
2.防衛の中枢部
自衛官生活の最終段階で、防衛庁の所在する六本木に、昭和60年8月から4年6月勤務した。現場の部隊勤務一筋であったが、最後の段階でヒノキ舞台に上った格好であった。
振り返ってみると、昭和の時代の防衛庁の総本山であった六本木、桧町基地はやはり緊張感が漂う防衛政策・機能の中枢であった。防衛庁の敷地には数多くの建物が立ち並び壮観であった。ただ防衛庁本庁を除き、どの建物もかなり古かったように覚えている。夜になると煌々と各部屋の灯火がともり不夜城のごとくで、消えるのは真夜中であった。
3.六本木の歴史
ネットで調べてみると、「当地は、1641年から1871年まで萩藩毛利家屋敷として使用された。明治時代に入ると1873年より陸軍の駐屯地となり、大日本帝国陸軍の歩兵第一および第三連隊が使用した。終戦後の1946年よりアメリカ合衆国に接収され、米軍将校の宿舎として使用された。サンフランシスコ講和条約発効後の1960年に日本に返還され、1962年より陸上自衛隊の檜町駐屯地となるとともに、防衛庁の本庁舎も設置された。」(Wikipedia 出典)
六本木は、かって軍隊の街でもあり、陸軍歩兵第一連隊(旧防衛庁、現東京ミッドタウン)、龍土町には陸軍歩兵第三連隊が置かれました(現国立新美術館)。第三連隊は昭和11年(1936年)の2・26事件の主役を務めた部隊である。
昭和20(1945)年8月の終戦後、日本の陸軍の敷地が米軍によって接収及び進駐された。現東京ミッドタウン(旧防衛庁)の辺りに米軍の宿舎が造られれた。
昭和34年(1959年)、米軍施設が日本に返還、 昭和39年(1964年)に地下鉄「日比谷線」が開通し、「六本木駅」が出来た。
平成12(2000)年5月 防衛庁本庁檜町庁舎(防衛庁檜町地区)は移転し、跡地には新たな複合施設「東京ミッドタウン」が平成19(2007)年にグランドオープン(街開き)した。
東京ミッドタウンは、東京・赤坂にある複合施設である。防衛庁本庁檜町庁舎(防衛庁檜町地区)跡地の再開発事業として2007年(平成19年)3月に開業した。運営者は三井不動産。(Wikipedia 出典)
4.六本木の防衛庁施設
六本木の防衛庁施設は、東京都港区赤坂9丁目7番地45号であった。防衛庁本庁では檜町地区あるいは防衛庁本庁檜町庁舎、自衛隊では、陸上自衛隊は檜町駐屯地といい、航空自衛隊では檜町基地と称していた。
六本木の防衛庁施設は、防衛庁・統合幕僚会議事務局・情報本部・陸上幕僚監部・海上幕僚監部・航空幕僚監部・防衛施設庁・防衛庁共済組合本庁支部 ( 旧歩兵第1連隊の建物が使われていた。)防衛庁調達実施本部などのほか諸部隊が所在していた。
( 空幕人事第2班長職の総括 完 }