昭和の航空自衛隊の思い出(352) 1等空佐への昇任と大胆な昇任人事施策

1. 1等空佐への昇任

    昭和61年(1986)12月、2等空佐で1佐職の人事第2班長へ補職されたことから1等空佐への昇任の可能性はあったが、何ら保障されたものではなかった。

  62年(1987)6月25日、人事課長から7月1日付で1等空佐へ昇任する旨の内示を受けた。その後防衛庁長官名の昇任人事が別掲の如く発令された。

    7月1日は、航空幕僚長に対して1等空佐への昇任申告をした。大村平航空幕僚長から「本日から航空自衛隊のVIPである。広い識見をもって処するように」との言葉をいただいた。

   当時、 航空自衛隊では、航空機の搭乗等でVIPコ-ドを使っており、天皇、総理大臣、大臣、国会議員から統幕議長・幕僚長、将官から1佐までコ-ド番号が決まっていた。1佐は一番下のコ-ド番号に入っていた。

   VIPは、Very Important Personの略であり、 「非常に重要な人物」、要人と解されている。

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 《 昭和62年7月1日1佐昇任人事、防衛専門紙「朝雲」 記事、人事発令の最後に登載された。 》

2.  2佐から1佐で変わった象徴的なこと

   昇任によつて 、1佐職である人事第2班長の職務に何らの変更もなかつたが、1佐へ昇任で名実ともに職務遂行の基盤が確立された。

    1佐は航空部隊では、一般的に群司令であり、空幕では班長であった。陸では連隊長である。上級幹部とみなされ、空幕長の言葉が胸に響き1佐の重責に身の引き締まる思いがした。日常の勤務において至る所で階級の重みを実感する日々であった。

   一階級の違いであるが、今までの昇任と違い、2佐と1佐とでは、実感として天と地ほどの差があった事を覚えている。どこにいっても今までと処遇が異なり、このことが一層公私にわたって自らを厳しく律することになった。これはまさしく自分が偉くなったのではなく、1佐という階級の社会的な評価と空幕人事第2班長の職務と責任から発するものであった。

  輸送機の定期便搭乗

   1佐の階級章を付けるようになって、一番の変化は官用機を利用して出張する時であった。

    輸送機の搭乗に関しては、1佐職の職務とは全く関係なく階級の2佐として取り扱われたが、1佐となつて基地のオペレーションに到着すると搭乗の手続きから搭乗までの控室、言うなればVIP室に案内され、出発の輸送機にエンジンがかかり、発進準備が整った時点で、オペレーション幹部が案内して機内の所定の座席に着くと、航空機は発進する事であった。2佐以下はその前に全員が座席につき待機する慣習であった。

     定期便の輸送機は、運行ルートに従って所定の航空基地で発着するたびに全員一旦機外へ降りることになるが、当該基地においては、VIP室か基地司令差回しの車が用意されており、基地司令室で懇談・休憩して離発着に合わせて車で移動し、再び搭乗することになった。

     2尉のころ、中警団司令兼入間基地司令の副官当時、定期便のVIPコードの通報は常に入手し団司令に報告し、時折お迎えに上がることがあった。要撃管制官当時は、輸送機のVIPコードでモニターをした事もあった。

     自衛隊においては、官用車、官用機の搭乗については、階級序列によって順番・位置などが決まっている。写真撮影の前列配置なども同じである。   

❷ 部隊等での処遇と処置要望

 空幕人事課人事第2班長としての部隊等における処遇は、特にに2佐のときと1佐になってからに大きな変化はなかったが、1佐になってからの定期の輸送便の利用時は、VIPコードが通報されるため、基地司令は何便に誰が搭乗しているか分かるシステムになっており、基地の発着の短時間といえどもを准曹士人事に関して部隊長から処置要望、説明を受けることが多くなった。

 部隊等訪問にあたっては、従前より丁重な処遇を受けるようになった事から階級と職責の重さを痛感することとなった。 空幕における勤務においても、関係部隊等の関係者からの電話・訪問が多くなった。

❸  1佐昇任で初めての祝電 

 35年余の自衛官生活で、昇任時に祝電をもらったことは一回もなかったが、1佐への昇任発令時には数通祝電をいただいた。これには驚き拝受したものである。その後は、退官パ-テイの時だけであった。 

3.  部内幹候出身者の昇任について

 操縦学生の第1期生として入隊し、階級は最初の2等空士から階段を一歩づつ登る如く昇任していった。空士時代は同期が全員一緒に昇任する、いわゆる「一斉昇任」であった。士長の時、操縦課程で操縦適性から操縦学生を免ぜられた。一般の士長として再出発し、空曹の昇任は昇任試験もありいわゆる「選抜昇任」であった。

 部内幹部候補生選抜試験は2曹で受験し合格したら、幹部候補生・1曹へ昇任(当時は曹長、准制度なし)した。幹部候補生課程を卒業したら幹部候補生・1曹のまま幹部勤務となり、3等空尉へは同期生と一緒に一斉昇任した。2等空尉へは若干のずれはあったが、ほぼ一斉であったように記憶している。1等空尉以上はすべて段階的な「選抜昇任」となった。定年までには多くの同期生は3佐となり、少数のものが2佐へ昇任した。

 こうしたことから部内出身者の昇任は、防大出身者の2~3倍以上在級年数を重ねてきたので、割り切っており、特別なこだわりがなかったように記憶している。

 むしろ、部内出身の特性を活かして、部隊においてしっかりと識見技能を磨き、部隊一の経験豊富にして、実力のある幹部を目指すことに重点を置いて、部隊戦力の重鎮、要になる努力をしてきたように記憶している。

   従って、同期生間で昇任が話題になることはなかった。昇任については、それぞれの思いをむしろ各自の胸のうちにしまっておいたのかもしれない。

 若い時代に、しばしば見聞したり経験したことは、昇任時期になると、同期から少しでも昇任が遅れたりすると上司や周囲から慰められる場面を見てきたが、同一階級でありながら在級年数が長く古参の部内幹候出身者には「残念だった」との声をかけられることや慰めの言葉をかけられたことはなかった。大抵の場合、何の沙汰もないのが普通であった。当然の如く取り扱われる悔しさは、1尉になるまでは若かったせいかほろ苦く感じたものである。

4.   部内幹候出身者の1等空佐への昇任

 部内幹候出身者の1等空佐への昇任は、部内幹候出身者の指揮幕僚課程修了者の項で述べた如く、航空自衛隊の創設以来、数はごく少ないが1佐へ昇進し活躍する先輩を見てきた。部内出身幹部にとっては、一つの輝く星のような存在であった。

 従って、隊内における評価は、部内幹候出身者が1佐になるのは、防大出身者等が将官になるよりも厳しい狭き門であると言われていた。それは部内幹候期の数期に1人出るか出ないかであったからであった。

 1佐への昇任者は、指揮幕僚課程等の修了が必須要件ではなかったが、部内幹候出身者の場合、過去の実績から、すべて指揮幕僚課程を修了した者から選ばれていることから、結果的にはCS卒業者から輩出するものと見られるようになった。

    一方、当時、CS卒業したからと言って1佐へ昇任できるものでもなかった。CSを修学することによって、その後、より幅広い識見技能を磨き、部隊等において上級指揮官・幕僚としての実力を発揮したかどうかにかかっていたように受け止められていた。

 人の評価は、本人ではなく、すべて上級の指揮官に委ねられるものである。上下に関わらず多くの隊員の評価によって形成されるものである。

 階級制度で成り立つ自衛隊においては、幹部の昇任に関しては、昇任計画、経歴管理基準に基づき期別管理が行われていた。時代の進展とともに抜擢も行われた。当時、航空自衛隊の幹部の人事管理は適切に行われたものと認識している。

5.  将官が輩出する大胆な人事

    部内幹候の1佐昇任、航空学生の1佐昇任と団司令への補職など着実に進展しているように見られる。男女共同参画の時代になって、女性自衛官の増加と職務の拡大に伴い抜擢昇任は進んでいった。

 現役当時、私の部下や教え子であった女性自衛官の梶田ミチ子、柏原敬子さんは将官に昇進した。自衛隊も世間も同じ、幹部は防衛大学、一般大学、航空学生、部内幹候及び3尉候補者と多種の各出身区分で構成されている以上、多様性のある人事管理、昇任管理は組織の活性化、部隊等の精強化と士気の高い指揮管理に不可欠であろう。また、将来の自衛隊幹部を養成する防衛大学出身者を主軸とする経歴管理、人事管理が行われることは当然のことであると考える。

 第1期操縦学生から菅原淳将補が誕生した如く、航空学生、部内幹候から将官が輩出してもよい時代になった。生きた人事とは、部内幹候出身の適任者の中から、約 3万余の准空尉・空曹及び空士の「輝ける星」として将官が輩出する英断・大胆な人事施策が求められる時代でもある。航空学生しかり、女性自衛官しかりである。