1.空幕人事課人事第2班長の内示と発令
昭和60年(1985)8月、西部航空警戒管制団司令部人事部長から航空幕僚監部人事教育部人事課勤務を命ぜられ、人事第2班配置となった。以後1年4月班長の次席として総括を担当してきた。
61年(1986)11月半ば頃になって12月初旬は空自首脳部の将官人事異動が予想された。これに関連し1佐職で人事第2班長の異動もあり得ると予想された。
12月2日の日記に次のように認めていた。
「12月5日付の空自首脳部の人事異動に関連し、人事第2班長を拝命することになった。午前11時人事課長から内々示を受け、16時発令に至る。知り合いの多数の方々から「おめでとう」「長く待ったなぁ」「いよいよだなぁ」等、様々なお祝いのことばを頂戴する。身の引き締まる思いである。驕ることなく謙虚に誠心をもって一歩一歩前進するのみである。自己の信念を堂々と披瀝し、幕僚として有終の美を飾ることが大切である。」と記していた。
人事発令が全国の部隊等に公表伝達されると、かっての上司・同僚・部下だった仲間から祝いの電話が相次いだ。空自の准空尉・空曹及び空士3万7千名の人事担当の責任者となる重責を担うことになった。
2.防衛庁人事発令
1佐職以上の補職・昇任などの人事は防衛庁長官(現防衛大臣)名で発令される。2佐以下の幹部は任命訓令に基づき航空幕僚長、准空尉・空曹は方面隊司令官、空士は団司令と任命権者が決められており、さらに職場の配置は配置権者が決められていた。
今回の人事は、将官人事に連動し、空幕会計課長及び教育課長の人事を中心に航空団等の基地業務群司令等が異動したものであった。
《 今回の人事は、CS同期(航学4期)の中村紀夫2佐が飛行支援班長、人事2班長髙橋和夫1佐は2空団基地業務群司令へ栄転された。1空団基群司令鈴木和親1佐とは退官後に自動車保険料率算定会で、西警団基群司令末次信正1佐は教導高射隊で、3術校教務課長中原康介1佐は人事課で一緒に仕事をした。班長職への配置に伴い公私にわたり交流の場が拡大することになった。》
《 昭和61年12月防衛情報紙「朝雲」》
挨拶状
《 部内出身者として、空自の准尉・空曹及び空士3万7千名の人事を所掌する班長職を拝命した。 その重責を果たすことを決意して挨拶状を認めた。その後1佐へ昇任し、1年7月現職を務めることになった。》