浜ちゃん日記  歩ける喜び

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 《 ある日の早朝、まだよちよち歩きの幼いクモがいた。いつ生まれたのだろうか、糸も引けず、じっとしていた。このクモが網を張って獲物を狙えるようになるは意外早いのかもしれない。じっとレンズに収めながら、この幼いクモも幼児のよちよち歩きと同じだと思った。強風でコスモスもかなり揺らいでいたが振り落とされないでくれと祈った。》

 

初めて歩けた喜び

 子どもが生まれ、はじめて歩いた時の親としての喜びはいくつになっても忘れないものだ。這い這いから、最初に立っておぼつかなくふらふらしながら歩く姿を見て、ほっとしたものである。

 私の子どもの頃は、お祝いモチを背負わせて歩かせる風習があった。いつの時代も、親の気持ちは同じであろう。

それぞれの地方や家庭によって、祝い方もさまざまである。

 自分の力で「歩ける」ということは、人生の活動の第一歩でもある。長じて高齢となると、「歩ける」機能が低下し、遂には歩くことさえできなくなってしまう。

 よく高齢者の衰えの第一歩は、歩くことが困難になることから始まるといわれている。

 障害があって車いすを利用するのと違って、高齢者の車いすは、加速度的に身体全体の機能低下につながっていくことが多い。

 

自由に歩ける喜び

 まちなかで、足が不自由にもかかわらず、甘えないで、恰好悪くとも杖を突いたりして一歩一歩自分の力で歩く努力をしている方を見ると敬服してしまう。

 自分がそのような状態になった時、どうするか分らないが、何としても自分の力で歩こうと思っている。

 いまは同年輩と比べると、外に出かける機会は多い方である。花の会・シニアクラブ等の役目柄町内に文書を配ったり、連絡調整に出掛けたりするときは、出来るだけ車や自転車を使わないで歩くことにしている。

 

大地を踏みしめる喜び

 町内を回ってくると、概ね2時間、歩数にして約1万歩位になるようだ。体に負担もなく、町内を散歩気分で見渡してくると結構楽しいものだ。皆さんはご苦労さんと言ってくれるが、私にとっては健康につながり有難いと思っている。

 人間はいつか、這うことも歩くことも困難になってくる。生きとし生けるものすべてがそうである。例外はない。誰にもやってくる。高齢者にとってはそれが早く来るか遅く来るかの違いである。

 こんな平凡な歩きの中に、大地を踏みしめて歩ける喜びをかみしめている。