わが88歳の雑感( 305) 毎日「歩ける幸せ」に感謝と持続への精進

 毎日、目にする新聞、テレビ、インターネットなどで、高齢者に対する「歩ける幸せ」を確保する食品、飲物、薬品、器具等の広告の宣伝文句に接する。少子高齢化社会が進むなか、それだけ多くの方が求めており、需要があるということではなかろうか。

 高齢者にとって、広告タイトルの「5人に1人が要介護、誰かの負担となる前に」は現実であり、要介護になる前に何とかしたいとする切実な事柄である。その中で、老化の一つは「歩く能力」の減退であり、次第に歩行が困難になる。この20年高齢者集団の現実を見て来たからだ。

 高齢期においては、「歩く」「歩ける」ことは日常生活の基本であり、生活の質を左右するものであり重要な事柄である。

 今年は89歳となるわが身としては、毎日何の苦もなく自然体で朝夕散歩をしているが、「毎日歩ける」ことに感謝している。自由に自力でどこへでも行けることほどありがたいことはない。この行動の自由をどこまで持続できるか、先のことはわからないが、「歩く」「歩ける」能力をできるだけ長く保持したいと考える。

 今のところ、よく目にする宣伝の飲物、薬、器具などにたよらないで、自分の両脚で歩きたいと思っている。

 自力で「歩く」ことの分岐点は、自分で歩くことを諦めた時から始まるのではなかろうか。甘えや他力本願は通用しない。自分の強い意志とたゆまぬ努力で何とか「歩く」「歩ける」能力を持続したいものだ。

 同年代の多くが、歩くことに苦労している現実を十分知っているだけに、いつの日か自分にもその時がやってくることを覚悟しているが、弱気は禁物であると自分に言い聞かせている。