天龍山洞雲寺の11月の掲示は、「恨みは恨みによってやまず 恨みは恨みなきによってのみやむ」である。
文字どおり解釈を要しないほど明快ではなかろうか。恨みは自分の心や感情から生じるものであり、他人が諌めても止むものではない。
恨みを晴らすために相手に恨みを返すことをしても、恨みが恨みを生み、さらに憎悪が増すだけである。人間は感情の動物だと言われているごとく、感情があるから人間だとも言えるが、自分の心や感情を制御する力を持っている。自制心は人間が持つ特有のものである。
古来、遺恨を中心とした様々な物語があり、恨みからくる人間模様は毎日の新聞紙上でも度々目にする。「恨み骨髄に徹する」というほど、人の心や感情は複雑怪奇でもある。時として、恨みから人を殺傷するなど犯罪行為に至るものもある。人は喜怒哀楽の中で毎日を過ごしている。恨みは怒りとは別次元のもの、喜怒哀楽のレベルを超えたものではなかろうか。
毎日の生活は、喜怒哀楽の繰り返しであり、常に変転している。喜びも、怒りも、悲しみも、楽しさも、その程度も十人十色で、千差万別ではある。
恨みのメカニズムはどうなっているだろうか。恨みに至るまでにはそれなりの理由があるであろうが、他人がそれを解決することは難しいのではなかろうか。本人の心と感情のことだからである。
人間の心と感情は恐ろしいものだ。鬼にもなれば仏さんのようにもなれる。恨みを持って過ごすより恨みを抱かないで過ごした方が、平安な日々が過ごせる。
人は様々な生活の中で、自分との関わり合いで、他人に対して恨みを抱くことがあるかもしれない。人間誰しも、程度の差はあれ、全く恨み心がなかった人はいないであろう。しかし、恨みに思うことがあっても、上手に自分の心と感情をコントロールし、平常心に戻って行くものである。
恨みを持たないようにするにはどうしたら良いか。恨まないことの名案はないが、恨み心は、自分を閉じ込め、発展性がない。心と感情の葛藤の連続と連鎖だけではなかろうか。恨みは恨みを生むだけである。
それには、出来るだけ早く、恨みごとがあっても、恨みの心と感情の縛呪から離れることである。恨みの執念にとらわれず、いち早く気持を他のことに転化・切替えていくことが必要ではなかろうか。つまるところは、「心の転化・切替」である。
84年余の人生を振り返って、自分が他人を恨んだことがあるだろうかと問いかけてみたが。あったのかなかったのかさえ記憶に残っていない。あったとしても大したことではなかったのであろうか。自分の心に傷跡として残っているものはないからだ。
他人に恨みを抱かせるようなことをしたかどうか定かではない。こればかりは直接的な恨みの対決事象がないとわからないものである。
それよりも記憶に残っているものは、嬉しかったこと、悲しかったことことの方である。喜怒哀楽の方が優っていたのかもしれない。他人を恨むことは自分の人生にとって何の役得や利点もない、きっぱりと忘れ去ることの方が楽しい人生を歩むことができる。