《 夏休みも終わって、元気に登校しだした子どもたち、この子たちは大きくなるにつれどんな宿題・課題を背負うことになるのであろうか。 》
人生は宿題の連続
子どもたちの夏休みは終わった。9月に入り孫たちも登校して新学期が始まった。皆元気に学校へ登校する姿がみられるようになった。
子どもにとって、今も昔も夏休みは宿題があったが、大東亜戦争中の国民学校から終戦後昭和23年3月の小学校まで過ごした私にとって、宿題・宿題といった記憶があまりない。宿題はあったが、今どきの子供のように親が心配したりしなかったような気がする。
どちらかと言えば仕事が忙しく、かまっている暇がなかったかもしれない。総じて先生始め親や子もおおらかであったのだろうか。
多分宿題はそれなりに相当あったと思うが、親から宿題はどうしたと言われた記憶がない。自分で適当に宿題をかたずけたに違いない。
カッコよく言えば、自主的にかたずけたと言えるかもしれない。
それより夏休みといえば、小学高学年のときは宿題より海山に友達と出かけて思い切り遊んだことは記憶が鮮明である。真黒になって海で泳ぎ、岩場に行って魚を採ったことを覚えている。鳥取県の日本海に面した田舎だったので、伸び伸びと過ごせた時代でもあった。
その点、今の子供たちは、宿題だ、塾だと大変な時代に生きている。
人の一生という大きな過程で考えてみると、子供の時の宿題は学校で習得したことを確実にしたり、予習として家庭における課題であり、勉強が主体であったかもしれないが、見方を変えてみると、人間として生きていくための助走的な教育的な訓練の一つと言ってとらえてもよいのではなかろうか。
人は成長するにつれ、与えられた、課された宿題から始って、好むと好まざるとにかかわらず、直面する宿題・課題に立ち向かっていかなければならない。この宿題・課題の内容も、次第に大きなものに変わってくる。与えられた、直面する宿題から、最後は自らが課す宿題に変わっていくものである。
こうしてみると、宿題は子供のときだけではない。むしろ、就職し社会人になってからの様々な直面する宿題・課題こそ大変である。職業人として、社会人として、家庭人として、年齢・世代・時代によって、より複雑・難解な宿題・課題に直面し、解決していかなければならないからだ。
高齢者にとっての宿題・課題
いまどきの後期高齢者にとっての宿題・課題は、「これからどのように生きていくか」の大きな宿題を課されることになる。生きている限り避けて通れない宿題・課題である。
答えは正解がない所が、宿題・課題の難しさでもある。人それぞれの生き方が正解であろうが、自分なりにこれが正解だと考えて進むしかない。
考えようによっては、自分で正解だと思った道を進めばいいのだから楽かもしれない。叱られることもない。宿題だ宿題だといわれることもない。自分にどんな宿題を課したのか、宿題をどこやったかもその人の胸三寸にある。
人生の終末期に至れば、その宿題・課題を解く力さえもなくなってくる。
人に自分の宿題・課題の中身を語る必要もない。毎日の生活の中で淡々と自分の宿題・課題に取り組んでいきたいものである。