昭和の航空自衛隊の思い出(113) 山口二三中警団司令・入間基地司令時代

1.   山口司令の記念植樹

 山口二三将補は、 昭和41年2月16日中部航空警戒管制団司令兼入間基地司令として着任されて以来、1年5か月在任され、42年7月17日、航空幕僚監部防衛部長へ栄転された。

 入間基地の離任にあたって木犀を植えられた。木犀はその後すくすくと成長したであろう。今日、45年以上たっており、入間基地でどのような大樹となっているのだろうかと当時、副官としてお仕えし、薫陶を受けた一人として在りし日の山口将補を思い浮かべることがある。 

 

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 《 昭和42年7月16日中部航空管制団司令兼入間基地司令山口二三将補の離任植樹・(木犀)、右から基地業務群司令桐村1佐・団司令山口将補・監理部長荒木2佐・基地業務群本部先任幹部太田2佐・広報班長白子3佐 》

 

2. 昭和40年代の入間航空祭

 昭和37年11月18日第1回入間航空祭が、航空自衛隊員の業務への旺盛な取り組みや装備品の展示のため開催された。その後、開催日は、来場者数は天候に左右されることが多いことから晴れの特異日といわれている11月3日を中心に選んで行われているようだ。

 山口司令在任間の昭和41年の第5回航空祭11/3~11/6と第1回東京航空宇宙ショ-11/4~11/6は延38万人であったと記録されている。。この時の山口基地司令のスケジュ-ルは大変なものであった。基地司令の指揮統率のもとに終始一貫して基地が全力を挙げて活動し事故もなく終了することができた。私にとっても副官1年目で一生懸命ひたすら職務に集中しているときで、すべてについて思い出の多い年であった。

 何といっても、航空祭はどの基地も同じであるが、ブルーインパルスの人気が一番だ。天気がよくてブル-インパルスが飛び大空に輪を描ければ大成功であった。

 入間基地ホ-ムペ-ジの《航空祭》(出典)によると、次の通り変遷している。   

入間航空祭・国際航空宇宙ショー
 昭和41年、第5回入間航空祭は第1回東京航空宇宙ショーと同時開催になりました。東京航空宇宙ショーは、国の長期的航空政策の確立、航空各界の再建・開発の促進、国民的関心を高めるため日本航空工業会、日本航空協会、朝日新聞社が主催したものです。その後、第3回東京航空宇宙ショーから名称を国際航空宇宙ショーに変更し、昭和46年に小牧基地で開催されました。第4~6回国際航空宇宙ショーは昭和48、51、54年に入間基地で開催されましたが、規模が大きくなってきたため、入間航空祭と同時開催することは運営上難しく、国際航空宇宙ショーとして開催されました。 

 

 

 《 入間基地ホ-ムぺ-ジ航空祭から(出典) 》 

 

  3.    入間航友会・基地協力団体の協力支援

  山口基地司令在任時の昭和41年11月航友会の「航友」の創刊号が発刊された。入間基地の後援団体として 航友会が発足して5年目で会長小沢一郎氏、副会長荻野光男氏の名コンビで入間基地への協力支援は息がぴったりと合って目を張るばかりであった。

 この舞台裏にはパイプ役として凄腕の広報班長白子3佐が活躍していたことは特筆すべきことであろう。当時、基地業務を担当し運営する部隊に実力のある有能な幹部が揃っていたように記憶している。

 山口司令の入間航友会の小澤会長、荻野副会長に対する信頼は絶大であった。基地司令と協力支援団体の長との関係など、その後各基地へ転任するたびに、地域の特性を発揮した防衛協力団体のありようが私の脳裏に強烈に残っていった。

 後年、定年退官し、浜松で隊友会支部長として、基地協力団体の5桜会で活動しているとき、全国に先駆けた強力な浜松防衛団体連合会の結成について提議し、西部防衛協会会長・副会長とスクラムを組んで参画することになった。これらの原点は、当時の入間航友会の基地と協力支援団体の良好な関係から学び取ったものであった。

4.    山口二三将補の「私の趣味」

   航友第5号・昭和42年3月5日へ寄稿されたものである。

中警団司令兼入間基地司令  山口二三将補の「私の趣味」

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 《 アルバムに貼りつけてあった山口司令の「私の趣味」、航友第5号・昭和42年3月5日への寄稿である。酒、マ-ジャン、ゴルフ、パチンコについて触れておられる。》