令和5年度・第21回国民の自衛顕彰(2) 陸自中央音楽隊萩智博3等陸尉(48) 「演奏・語学両立のパイオニア」

 令和5年度・第21回「国民の自衛官」顕彰の隊員及び部隊の横顔紹介が産経新聞で始まった。恒例のフジサンケイグループ主催の画期的な顕彰事業で敬意を表する。

❶ 国民の自衛官横顔(2)

  陸自中央音楽隊萩智博3等陸尉(48) 

 「演奏・語学両立のパイオニア

  産経新聞記事 令和5年9月13日  出典

「大舞台で活躍する数多くの機会をいただいた」と語る荻智博3等陸尉

来日した外国要人らを空港や皇居などで出迎え、礼を尽くす特別儀仗(ぎじょう)で演奏を担う陸上自衛隊中央音楽隊は、日本を代表する吹奏楽団だ。国内外の演奏会や海外軍楽隊の育成など活動範囲は幅広く、専門のクラリネットの演奏技術に加え、研鑽(けんさん)を重ねた語学力をいかして貢献してきた。

子供の頃からクラリネットのほか、ピアノやチューバなどにも親しんだ。「音楽を仕事にしたい」との思いから、平成5年、高校卒業と同時に陸自の音楽科を志望。素養が認められ、地元・熊本の第8音楽隊に配属された。先輩隊員からの指導だけでなく、時には福岡や東京に出向き、著名な演奏家に学んだ。努力の甲斐あって10年に中央音楽隊に移った。

音楽の傍ら、自衛隊内の英語課程で学び、通訳としての素地も築いた。クイーンズイングリッシュの翻訳に頭を悩ませたイギリス・エディンバラ軍楽祭や、基礎的な音階教育から始めたパプアニューギニア軍楽隊の育成支援など語学をいかした任務は数多い。

音楽と語学の双方に通じた中央音楽隊員は現在全体の1割程度だが、パイオニアとして道を切り開いてきた存在だ。

幹部自衛官への昇任で、演奏家としては一線を退く。今後は「部隊運営に貢献したい」と語り、楽器を指揮棒に持ち替え、奮闘を続ける。(中村雅和、写真も)

 

❷ 所感

 陸自の中央音楽隊は、陸海空3自衛隊を代表する精鋭の吹奏楽団であり、日本を代表する軍楽隊である。防衛大臣直轄部隊である。

 萩智3尉は、高校卒業後、陸自の音楽科を志望、素質が認められ、地元熊本の第8音楽隊に配置されてから、精進し中央音楽隊要員に選抜された。

 その上、語学も学び、音楽を通じて国際貢献に活躍した点が認められて今回の「国民の自衛官」に選ばれたものと思う。素晴らしいことである。

音楽隊といえば、昭和の航空自衛隊時代に忘れらない思い出がある。

❶  世界各国において、軍隊に軍楽隊が設けられている。軍樂隊は、国内外の要人の歓迎式と閲兵、国家の行事、軍隊の式典等で演奏活動を行う演奏集団である。

 軍楽隊といえば、旧軍の戸山学校軍楽隊か有名である。戦後、優れた音楽家が輩出した。その流れを汲む戸山学校軍楽隊出身者が、創設期の陸海空音楽隊の指導者を生み出した。特に、昭和の陸空の中央音楽隊の創設期を知るだけに音楽隊といえば当時を思い出す。

❷  陸自の中央音楽隊の初代隊長は、元陸軍音楽大尉で南方軍総司令部音楽隊長であった須藤洋朔1等陸佐である。創設期の中央音楽隊長は、旧軍の戸山学校軍楽隊の出身者であった。また、初代航空中央音楽隊長の松本秀喜氏も陸軍軍楽隊出身で陸自の中央音楽隊副隊長から1等空尉で航空へ転官された。

航空中央音楽隊の創設期には、筆者は、昭和32年、第1期操縦学生から操縦免となり、浜松基地の整備学校総務課に勤務していた。

 当時、音楽隊要員となった先輩清水佐一氏と同じ総務課で勤務しており、航空音楽隊が浜松基地で編成された当時のことが記憶に残っている。

❹ 空自在隊間において、指揮幕僚課程を卒業して、西部航空方面隊司令部で准尉、空曹及び空士の人事担当になったおりに西空音楽隊、航空幕僚監部人事課人事第2班長当時、航空中央音楽隊の准・曹・士人事管理を担当したことから少なからず縁があり、奇遇にも両方とも隊長が進藤潤氏であった。音楽隊要員の充足、異動等人事管理で直接調整することがあったので、印象深いものがある。

❺  音楽隊要員は、昭和時代の創設期は、本人の志望と音楽が好きで楽器が吹けるといったことから指定されることがあった。そのため、音楽隊員として精進努力して一定のレベルに達するが、どうしても大きな壁にぶつかり、本人の希望により中途で他の職域へ転換する事例が発生した。通常の自衛官教育訓練と異なり、芸術的、音楽的な資質能力はどんなに努力しても越えられないられないものがあるようで、人事処置をしたことがある。

 その後は、音楽隊要員については、志望の段階で、音楽隊長が何回も直接面接して資質能力を確認追跡する等を行い、人事管理を適切に行えるようになった。

❻  毎年、東京九段の武道館で行われる「音楽祭り」は、陸海空の全国の音楽隊、外国軍隊の軍楽隊も出演し、素晴らしいものであった。