昭和の航空自衛隊の思い出(143) 指揮幕僚課程学生の選抜要領

1.指揮幕僚課程学生の選抜要領 

 このブログの思い出はまさしく昭和の時代の思い出である。最近の指揮幕僚課程は、時代の進展と共に改善充実してきていることは当然であろう。ネットで「指揮幕僚課程学生等選抜規則」を見ると、平成7年には、学生選抜の方法、受験資格者、試験日(1次3月上旬、2次8月下旬)及び学生予定者の決定(11月)など大きく変わってきているようだ。

 これはさておき、昭和の40年代当時において、「幹部学校記事」と「過去の出題」からどんな方針でCS学生を選抜しているのかはおぼろげながら察知することができた。

 その基本は、部隊勤務の状況及び経験の重視であり、試験実施により幹部全般の研究心、向学心の向上を図り、本務に結びつく研究、勉学の期待であったように受け止めていた。

 試験問題及び採用者数は職域及び職域グル-プごとに定められ、学科試験は受験者が本務に関し研究努力した結果を把握・評価する内容であった。

2.指揮幕僚課程学生選抜試験の受験 

 昭和46年に入ってから「第21期指揮幕僚課程学生選抜試験実施要綱」が示された。受験にあたっては、まず受験を希望するかどうかの調査が行われたので受験したいと申し出た。私の受験希望に対して群司令の上原惠次1佐がどのように反応されたか覚えていないが快く受け入れていただくことができた。

 部隊等の長は、受験を希望する者のうち、受験資格を有し、かつ、勤務成績が良好で、識見、能力及び健康状態が学生として適当と認められたものを受験者名簿に登載し報告するようになっていた。基地業務群においては数人が受験を希望したが、部内幹候出身者からの受験の申し出は私一人であったように記憶している。

 第1次試験は、確か47年2月上旬であったと思うが、2日間にわたって行われ入間基地で受験した。1次は筆記試験により受験者の知識、能力及び一般教養について評価するものであった。内容は共通試験、職域試験及び英語試験が行われた。英語は辞典の持ち込みが可であったように記憶している。

 共通試験は、かなり難しかったように記憶している。これに対して、職域は、「人事」を選択したが、総務人事班長として日ごろ課題として真剣に取り組み、研究・実行していることに関わるものが出題されており、今後取り組むべき事柄を含めて所信を記述した。

 試験の成績や合否はともかく自分なりに正々堂々と挑戦したので満足であった。

3. 指揮幕僚課程学生選抜 1次合格と異動

 1次試験を終えてしばらくしてから、昭和47年3月16日付で浜松基地所在の長官直轄部隊である教導高射隊総務班長として転任が発令された。 

 入間基地における勤務は、昭和41年5月、中部航空警戒管制団司令部副官、整備補給群本部総務人事班長、次いで基地業務群本部人事班長と約6年間を終えての異動であった。

 異動先は長官直轄部隊の総務人事を担当する職務であり、初めてのナイキ部隊であることから申し分のない部隊勤務であり、妻の郷里であることから家族からは喜ばれた。 

 異動発令の直前に、CS1次合格者が発表され「1次合格」となったが人事異動はそのまま行われることになった。当時、基地業務群では群司令を除き、CS出身者や1次合格者はいなかっただけに部内出身ということで驚きと珍しがられた。

 第1次試験の合格者80名の中に名を連ねることになったが、学生予定は40名であり厳しい戦いが始まった。のちになって1次試験受験者数は659名であることを知った。

 とりあえず、長子の浜松への小学校転校、家族の転居・官舎の退去と入居、業務処理、転勤の送別会とあわただしい中に、新学期に子供を入学させることができた。

4.  約6年の入間基地勤務

  平成2年4月に航空自衛隊を定年退官して以来、入間基地を訪れたことがない。約25年の歳月が経っている。入間基地には昭和41年5月から47年月3月まで、中部航空警戒管制団司令部副官、人事幹部課程の入校、整備補給群本部総務人事班長、幹部普通課程の入校、1尉昇任及び基地業務群人事班長を得て浜松基地へ転任するまで約6年間勤務した。

 一つの基地での勤務は最も長かったことになる。その後の幕僚勤務で入間基地に訪れる機会は多く、私の航空自衛隊における勤務と入間基地は切っても切り離せないくらいに縁があった基地である。

 こうしたことから、今日に至るも入間基地は特別の愛着を感じている。特に最近の基地の発展とりわけ、各種の司令部が所在しており、その充実発展は、「入間基地ホ-ムぺ-ジ」でも見られるごとく、目を見張るものがある。