昭和の航空自衛隊の思い出(139) 団司令部人事幕僚との出合い

1.団司令部幕僚との密接な関係

 昭和43年12月~45年5月の中警団整備補給群本部総務人事班長及び昭和45年5月~47年3月の基地業務群本部人事班長の職務を通じて感じたことは、いかに上級司令部との緊密な関係が築けるかによってうまく業務が進むかどうかを左右することになる。

 後年、逆に上級司令部の幕僚になってみると、隷下部隊の幕僚がどのように上級司令部との関係を積極的に築く努力をしたかによって、かなり差が出てくるものだと実感した。こうした関係は両者の不断の努力によって作り上げられるものではなかろうか。

 当時の中警団司令部人事部人事班は、班長太田瀧次郎3佐(部外13期)が率いており、私も同司令部の一員である副官を経験したことから全班員と顔なじみであった。相互の連絡調整において、同じ基地に所在し、且つ、距離的にも近いところにあったことから頻繁に出入りすることができた。おらゆる面で恵まれた状況にあったといえる。

 中警団司令部及び整備補給群、基地業務群に勤務した当時の団司令部人事班長は、確か 木通博行3佐(部外3期)、堀江保夫3佐、ついで太田瀧次郎3佐であったように記憶している。

   更に副官当時の中部航空方面隊司令部人事班長は高浪淳2佐で、基地業務群勤務当時は航空幕僚監部人事課の補任担当となられた。高浪さん家族には同じ官舎で大変お世話になった。

   多くの先輩に囲まれて育てて頂いた。人事畑の錚々たる大御所の諸兄で人事職域の基盤を築かれた方たちであった。

2.  太田瀧次郎班長の指導と厚誼

 太田班長には、事のほかご指導いただきお世話になった。階級も遅まきながら1尉になり幹部普通課程を修了して本格的に人事幹部への道を歩み始めたころで、疑問に感じていることや迷うことがあるときは、先輩の胸を借りる格好で相談に応じていただいた。

 当時の指導は、最も胸に響くことばかりで、後年、各級司令部で人事幕僚として活動する基盤になったように感じている。官舎も同じ地区に居住し子供たちもお世話になった。感謝しきれないものがある。

3.  自分の持ち味が少し出せるようになった頃

 私の強みは、一番下の階級から出発して、操縦学生・部内幹候出身者であり、第一線部隊の要撃管制官として短い期間とはいえ、直接、作戦運用の部門を経験したことであった。いろいろなことを経験することによって、すべての物の考え方、見方が部隊運用を中心とた背筋のしっかりした不動のものになったことである。

 自衛隊における勤務年数16年、年齢36歳、階級は鈍行組ではあったが1尉になった。今から振り返ると何事にも自信がついて、意気に燃え意欲満々、毎日の仕事が面白くて、上り坂の途上であったように思える。どんな訓練演習、諸勤務であっても体力・気力の面で立ち向かえる時期であった。

 そして、わが胸に秘めたことが一つあった。それは部内幹候出身者として、1尉の在級年数と受験上限年齢から受験資格1回しかなかった「指揮幕僚課程(CSC)学生選抜試験への挑戦」であった。

 

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 基地業務群給養班で行われる年末恒例の基地餅つき大会で餅をついた。この餅は隊員の食事に振舞われたり、諸部隊へ配る鏡餅であったように記憶している。》