昭和の航空自衛隊の思い出(419) 東京勤務の様々な出会い(5) 各種会合への積極的な参加と交流

1. 各種会合への積極的な参加と交流

     昭和60年(1985)8月防衛庁航空幕僚監部勤務となって、在京周辺の知人との交流が飛躍的に拡大した。

    かって中部航空警戒管制団司令部・部隊の入間基地及び航空総隊司令部の府中基地で勤務した折も在京の友人達と交流を深めたものであった。 在京という地の利を得たことが一番のきっかけであったように思われる。

2.一緒に仕事をした仲間との交流

 自衛官人生も人と人との交わりである。上下・同僚の関係を問わず、一緒に仕事をした仲間との交流は、六本木の空幕勤務になってから一層緊密になっていった。とりわけ、第一線部隊及び各級司令部で一緒に仕事をした仲間や第3術科学校教官時代の教え子は、上京の機会があると空幕のわたくしのもとへ訪ねてくれた。さらに現場からの電話が一段と多くなった。

 空幕という一般部隊から見たら敷居が高くなったであろうに、そうしたことには関係なく、むしろ多くの知友が気楽に立ち寄ってくれ最新情報をもたらしてくれたことに感謝し嬉しかったものである。

 航空総隊司令部勤務時代に関わった部隊のある空曹は、大病を患い、死の一歩手前まで行ったが、関係部署と綿密な連携のもとに人事処置を行い、関係部隊の温かい配慮と療養の甲斐あって、数年後には再び戦列に復帰し、わざわざ上京して元気になった姿を見せに報告に来てくれた。

 西警団人事部長当時、離島サイトに単身赴任の隊員は、お嬢さんが不登校となり、一家離散の危機に直面したが、適切な人事処置により、円満・平穏な家庭に回復したと朗報を手紙で知らせてきた。生きた人事に多少でも手助けできたように思った。

 どの勤務地に行っても、担当者として手掛けた特異事案は、それで終わることなく、できる限り継続して状況を確認していた甲斐があったのであろうか、現場部隊の一人事の担当者の身であったが、単なる仕事で終わることなく、誠心を持って事にあたり、気にかけて励ますことに心がけたことが結実したのであろうか。嬉しいことであった。

3. CS同期会

 空幕勤務間は、第21期指揮幕僚課程(昭和47年7月~48年7月・40名)の同期生との交流は、都内で1~2回集まって懇親会を行ったように記憶している。空幕・統幕・在京部隊統に勤務しているものが集まった。入校間に1尉・3佐であったが、卒業後10年たった前後においては、部隊においては群司令、 各級司令部では班長・部長職、空幕では班長職及び課長職で活躍していた。その後、同期生の中から多くの将官が生まれた。 

4.  第23期部内幹候同期会

 昭和60年(1985)10月の土曜日、仕事を終え、夕方は新宿で部内同期生懇親会に参加した。  当時は、現在のように週休2日制ではなく、土曜日の午前は勤務であった。ただし、指定休制度があって、土曜日は交代で休みを取っていた。言うなれば週休2日制に移行する前の段階であった。

    在京及び関東周辺 部隊に勤務している第23期部内幹候の同期が集まった。既に定年退職者が出ていた。同じ一般幹部候補生課程でも、部内からの選抜の場合、受験資格からして入校時の年齢が24歳から35歳までの幅があったからである。

    年齢の開きはあったが.10カ月間一緒に教育訓練で切磋琢磨してきたので年齢差は全く感じたことはなかった。強いて言えば、体力的な面だけであった。

 部内からの選抜試験で幹部になったものばかりであり、階級、昇進に関係なく各職域の神様的な存在として活躍していた。一人一人が独立しており、一匹狼的な存在であったように思う。

 その後、在京間、同期の退官の折に送別会と同期会を開いたりした。23期生会は、組織的な活動はなかったが、熊谷の工藤哲男君が積極的に情報収集に努め、定期的に「悪友」を発行し同期の絆を深めてくれた。

5 .  春日会

❶ 正信恭行元西警団司令を囲む会

  昭和62年8月31日 新宿において、正信恭行元西部航空警戒管制団司令兼春日基地司令を囲む会を、当時春日基地に勤務した者が集まって開いた。

 正信団司令は、すでに退官され日本アビオに勤務されていたが、それだけ当時の幕僚等が集まったのは、気さくで明るく指揮統率力が優れた方であった証左であろう。当時防衛部長だった日下喜伴氏は日本電気、防衛部の右今3佐は代議士秘書に転進していたが参加した。また、当時の西警団司令部及び各群等の幕僚で勤務した面々は、空幕の各課に勤務し、それぞれが実力を発揮していた。

 当時の参加者は、3佐山口憲輔(装備部施設班長)・2佐林(防衛部防衛班員)・3佐祖川誠介(防衛部運用班員)は運用課・1尉岳川(防空管制群)・1尉稲葉(防衛部通電班員)・1佐濵田喜己(人事部長)・2佐北村善信(防衛部防衛班員 )・3佐佐々木貞良(防空管制群運用班長)・1尉吉原方人(整備補給群整備監理班員)の各氏であった。

こうしてみると司令部等の勤務者が、2~3年の間にそれぞれの分野で空幕勤務になっていることがよくわかる。 

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6.  矢田次夫元統合幕僚会議議長・海将を囲む会 

    私の出身校である倉吉東高等学校の前身、旧制倉吉中学出身で海兵75期で海上幕僚長を歴任され、第13代統合幕僚会議議長(現在の統合幕僚長)に就任された「矢田次夫元統合幕僚会議議長を囲む会 」は、強い印象が残った。

 空幕勤務間に、六本木の防衛庁に勤務していた鳥取県出身の陸海空の幹部自衛官が集まって、「 矢田次夫元統合幕僚会議議長を囲む会 」を設け親しく懇談した。とりわけ同窓の先輩であったことから熱心に話を伺った。

 矢田海将が、統幕議長在任時に、故郷の「日本海新聞」に、鳥取県出身著名人が執筆した毎週連載のコラムにも登場され、その「随想」冊子をいただいた。記念写真と一緒に冊子を保管していたがどこかに紛れ込んでいるようだ。

大正12年5月鳥取県倉吉市生まれ

昭和15(1940)年12月海軍兵学校入校(72期)

昭和18(1943)年9月海軍兵学校卒業(卒業生625人)

昭和27(1952)年月海上警備隊入隊(1等警備士)

昭和51(1976)年3月海上幕僚監部防衛部長、7月海将

昭和52(1977)年7月佐世保地方総監 

昭和54(1979)年2月自衛艦隊司令官

昭和55(1980)年2月第13代海上幕僚長

昭和56(1981)年2月:第13代統合幕僚会議議長。

昭和58(1983)年3月退官、三菱重工業顧問等

平成24(2012)4月24日死去(享年88)

 

 

昭和の航空自衛隊の思い出(418) 東京勤務の様々な出会い(4) 各種会合への積極的な参加と交流

1.  各種会合への積極的な参加と交流  

    自衛隊入隊以来、自衛隊関係はもとより同窓会、県人会など各種会合には積極的に参加してきた。このスタンスはどこの基地に勤務しても変わらなかったように思う。   

 とりわけ、昭和60年(1985)8月東京勤務となって、さらに同窓会、県人会など参加する機会が与えられた。かって入間基地及び府中基地に勤務した折もそうであった。六本木の防衛庁航空幕僚監部・中央勤務は、公私にわたって、積極的に、自衛隊関係者とかといった区分なく、在京の友人達と交流を深めることに努めた。 

 その根底にあったのは、昭和30年1月陸上自衛隊、同年6月航空自衛隊に入隊してからいつの時代においても自衛隊勤務と自衛官の職務を誇りにしていたことにあった。

 昭和の20~30年代に一部の連中から税金泥棒呼ばわりされる時代があったが、世界を見渡してみて、国家の成り立ちは異なっても、すべての国において国家・国民を守る国軍・軍隊は存在しており、必要不可欠なものであるとの考えを堅持しいささかもたじろぐことはなかった。

 この考えや信念は、入隊後隊内で特別な教育を受けたりしてそうなったのではなく、厳しい環境で自己の職務を遂行しているうちに形成されたものであった。

 また、自衛隊という集団だけではなく、若い時代から機会があれば、積極的に自衛隊以外の社会・集団等における人々との交流を重視し、自己の練磨を図ることが必要であると考えたことにあった。 

2.   東京鴨水会(倉吉東高の同窓会)

 鳥取県倉吉東高の同窓会である東京鴨水会が、昭和60年(1985)11月14日、千代田区大手町の竹橋会館で行われた。東京周辺の卒業生の鴨水会であった。

    高校同級生の弁護士の鳥飼君が役員をしていた関係で案内状をもらい初めて出席した。NHK国際報道部にいた小学校の親友松村喜一郎君が活躍していた。このときは、高校の大先輩岸田準之助さんの話が印象に残っている。

    それ以来、毎年案内状をもらっている。最近はメールが活用され、同窓会のほか、卒業生の著書の出版・個展などの展覧会・コンサートなどの発表会などの情報発信されている。  

    退官後は、東海鴨水会の案内をもらっているが、高齢になるにつれて、参加できないでいるが、母校のことには常に関心がある。分厚い母校の記念誌や卒業者名簿などはしっかり保存している。母校の近況や生徒の活躍のニュースなどは幾つになっても良いものだ。 

3.ニクメンバ―会(2)

 昭和60年(1985)12月に次いで、61年(1986)12月、62年(1987)12月、毎年、都内港区南青山「動燃青山」でニクメンバ―会の忘年会が行われ参加した。

    昭和29年3月鳥取県立倉吉東高等学校を卒業したが、高校に入学した時は、県立倉吉高校であった。2年のとき、高校の学制改革により、倉吉東高と倉吉西高に分離した。倉吉西高は女生徒が主力であった。多感な少年時代だけに1年間の出会いであっても、当時ことはよく覚えている。

    こうしたことから、ニクメンバー会は、昭和29年卒業の倉吉東・西高の合同同級会でもあった。東京在勤間は毎年のこの会に出席するようになった。  参加者のうち自衛官は、私一人であった。

東京及び入間・府中の勤務間において、同窓生との出会いが生まれ、自衛隊生活が一層充実し有意義なものとなった。

2016-09-26  昭和の航空自衛隊の思い出(356) 東京勤務の様々な出会い(2) ニクメンバ―会と第1期操縦学生会

 

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《 昭和61年(1986)12月  、ニクメンバ-会 》

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《 昭和62年(1987)12月  、ニクメンバ-会 》

 

わが趣味活動(29) 記録写真から趣味の写真へ

1.記録中心の写真

 写真に関しては、航空自衛隊に入隊した昭和30年から奮発して初級のカメラを買って取り始めたのが出発点であった。その動機は、同期生の一人に山脇君が、高級?なカメラをもっていて、夜間の自習時間の時、さっさと勉強のの方はかたずけて、撮った写真にカラ-を塗って今でいうカラ-写真をつくているのに刺激されて、四角いカメラをかった。主として、日常の体内生活、行事、同期生、外出した時の町の様子などを撮ったりした。
 どちらかというと、記念写真、記録写真の感覚であった。フイルムで現像のたびにカメラ屋さんに通ったものである。自分で現像をやるところまではいかなかった。
 結婚し、家族が増えるたびに写真の枚数は増え、写真帳は家族全員、家族別に分けて20冊以上になった。子供たちの写真は独り立ちしていったときにアルバム帳を渡した。ネガが多くあるが再生することなく保存している。

2.記録写真の効用

 ブログを書くようになって、「昭和の航空自衛隊の思い出」の部ではこうしたアルバム帳が役立った。人間の記憶は歳を重ねるにつれて断片的で不鮮明となるものだ。その点、日記帳やメモ類、さらにはアルバムは役立った。

 花活動の記録は、活動を始めた10年前から、丹念にデジカメで記録してきた。できるかぎり毎日、、デジカメで花畑の状況を記録し、パソコンに入力したりCD化してきた。地域の街並み・お祭・自治会の諸行事などもデジカメに収録したものである。いつの日がお役立つことがあるかもしれないとの思いであった。動けなくなるまでこうした類は続けていきたいと思っている。

3.記録中心から趣味としての写真へ

 平成23年8月、縁あって写真の講座に参加して以来、東部写楽会の一員となり、さらには浜松市しん写真連絡協議会の会員に入れていただいている。協議会の写真展には作品を出展することにしている。

 写真の才能はないが、やってみると結構これが楽しいものである。毎月の定例の合評会で批評してもらい、写真に対する考え方や見方がかなり違ってきたように感じている。

 これから目指すところは、芸術的な写真を撮りたいと思っている。どんな視点で何を表現するか精進したいと思っている。したがって、どこに行くにもカメラは携行し、シャッタ-チャンスがあれば即座に応じられるように心がけている。

 現職時代の即応体制の心構えと同じである。どこに行っても、写真的な構図を描き、いつでも絵にならないかと常に思っている。そのことが、活動力・好奇心を保ち、ボケや無関心を遅らせ、いつまでも若々しい気持ちでいたいことにつながってくれればありがたいものだ。

 2014-01-30  浜ちゃん日記 東部写楽会の活動

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《 写真を始めたころの大根の写真である。ショッキングであるが、大根の生きざまを撮ってみた。地域の畑で見かけた情景である。残酷のようであるが、花を咲かせず大根を長持ちさせることができる。》

昭和の航空自衛隊の思い出(417) 空幕人事第2班長職の総括(7) 六本木の防衛庁勤務

    昭和の時代の「六本木」といえば、防衛庁とディスコという印象が強烈に残っている。自衛官生活の最終段階で、最初にして最後の航空幕僚監部人事課勤務における活動の場は、六本木の防衛庁であった。一般の航空基地の広さからすれば全く比較にならないが、都心における六本木の防衛庁の諸施設は壮観であった。

 空幕人事課における職務を終えて、次の補職でも新しい職務を担うことになり引き続き六本木の防衛庁施設内で勤務することになった。昭和60年8月から4年6月勤務した六本木の防衛庁は終生忘れがたい勤務であった。

1.   中央勤務の舞台となった六本木の防衛庁

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《 昭和時代の六本木の防衛庁及びその周辺、現在の市ケ谷台の防衛省と異なって市街地の防衛庁区画に所狭しと防衛の中枢部が立ち並んでいた。》

2.防衛の中枢部

    自衛官生活の最終段階で、防衛庁の所在する六本木に、昭和60年8月から4年6月勤務した。現場の部隊勤務一筋であったが、最後の段階でヒノキ舞台に上った格好であった。

 振り返ってみると、昭和の時代の防衛庁の総本山であった六本木、桧町基地はやはり緊張感が漂う防衛政策・機能の中枢であった。防衛庁の敷地には数多くの建物が立ち並び壮観であった。ただ防衛庁本庁を除き、どの建物もかなり古かったように覚えている。夜になると煌々と各部屋の灯火がともり不夜城のごとくで、消えるのは真夜中であった。

3.六本木の歴史

 ネットで調べてみると、「当地は、1641年から1871年まで萩藩毛利家屋敷として使用された。明治時代に入ると1873年より陸軍の駐屯地となり、大日本帝国陸軍歩兵第一および第三連隊が使用した。終戦後の1946年よりアメリカ合衆国に接収され、米軍将校の宿舎として使用された。サンフランシスコ講和条約発効後の1960年に日本に返還され、1962年より陸上自衛隊檜町駐屯地となるとともに、防衛庁の本庁舎も設置された。」(Wikipedia 出典)

 六本木は、かって軍隊の街でもあり、陸軍歩兵第一連隊(旧防衛庁、現東京ミッドタウン)、龍土町には陸軍歩兵第三連隊が置かれました(現国立新美術館)。第三連隊は昭和11年(1936年)の2・26事件の主役を務めた部隊である。
 昭和20(1945)年8月の終戦後、日本の陸軍の敷地が米軍によって接収及び進駐された。現東京ミッドタウン(旧防衛庁)の辺りに米軍の宿舎が造られれた。

    昭和34年(1959年)、米軍施設が日本に返還、 昭和39年(1964年)に地下鉄「日比谷線」が開通し、「六本木駅」が出来た。
 平成12(2000)年5月   防衛庁本庁檜町庁舎(防衛庁檜町地区)は移転し、跡地には新たな複合施設「東京ミッドタウン」が平成19(2007)年にグランドオープン(街開き)した。

     東京ミッドタウンは、東京赤坂にある複合施設である。防衛庁本庁檜町庁舎(防衛庁檜町地区)跡地の再開発事業として2007年(平成19年)3月に開業した。運営者は三井不動産。(Wikipedia 出典)

Tokyo Midtown.2.JPG

《 防衛庁敷地後には、東京ミッドタウンができた。周辺の再開発によって新しい街が生まれたといってよいであろう。 》

六本木の防衛庁施設

 六本木の防衛庁施設は、東京都港区赤坂9丁目7番地45号であった。防衛庁本庁では檜町地区あるいは防衛庁本庁檜町庁舎、自衛隊では、陸上自衛隊は檜町駐屯地といい、航空自衛隊では檜町基地と称していた。 
  六本木の防衛庁施設は、防衛庁統合幕僚会議事務局情報本部陸上幕僚監部海上幕僚監部・航空幕僚監部防衛施設庁防衛庁共済組合本庁支部 ( 旧歩兵第1連隊の建物が使われていた。)防衛庁調達実施本部などのほか諸部隊が所在していた。

( 空幕人事第2班長職の総括 完 }

昭和の航空自衛隊の思い出(416) 空幕人事第2班長職の総括(6) 人事第2班の機能発揮の基盤確立が最大の喜び

  空幕人事課勤務及び人事第2班長職の総括として、最高の喜びは、人事第2班の機能発揮の基盤の確立に寄与できたことであった。

1.   人事第2班の機能発揮と存在感   

   空幕人事第2班について、准曹士充員計画の作成が復帰するまで、昭和の時代、各級司令部の人事幕僚、とりわけ航空総隊司令部及び航空方面隊司令部において、准尉、空曹及び空士に関する人事担当をした経験から感じたことは、正直なところ准曹士人事の総本山あるべき空幕人事第2班が、幹部人事担当の人事第1班、事務官等人事担当の人事第3班と比較して存在感が薄かったように記憶している。

    その具体的な例として、幹部人事は、毎年人事異動計画を作成する時期になると、事前に、人事第1班補任担当幕僚が部隊訪問して部隊要望を聴取し、人事部長・人事班長との関係は緊密であったのに対して、人事第2班長及び担当者の部隊訪問はなかったように記憶している。人事第1班補任担当幕僚の部隊訪問の折は基地所在の人事担当者が集まり懇親会を設け懇談したものである。

   それに対して、准曹士充員計画作成時期になると、部隊等担当者は、人事第2班ではなく、もっぱら、空幕人事計画室へ出かけたり、当該担当幕僚とのやりとりのみが強く印象に残っている。空幕勤務になるまでに、人事第2班担当幕僚との懇談・懇親の機会は残念ながら全く記憶にない。一言で言えば影が薄かったということである。

    それに至ったのは、准曹士人事の総本山あるべき空幕人事第2班が充員計画に関し、計画段階で充員や異動交流の要望の窓口ではなく、空幕人事計画室へ要望を提出し、時には担当者の元へ説明に駆けつけることを行なっていたからであった。

    部隊要望を実現するには、計画段階でしっかりと要望し、充員計画に盛り込んでもらうことがまず大事であった。計画が出来上がってから、要望しても異動等は相手のあることであり、実現が困難であった。後期の修正作業時までまたざるを得なかった。

    このことは、意外に大きな力と意味をもっており、充員計画の二元化、計画部門と実行部門には、どんなに連絡調整を密にしても越えられないものがあった。

    計画段階で、第2班から幹部と空曹が支援に参加したとはいえ、人事第2班長は関与することなく進められていた。一方、部隊側は、空幕に対しては、窓口が二つあり、内容によって使い分けるという複雑化が生じた。このように充員に関しては、計画と実行の二元化は長い間に人事第2班の機能発揮に大きな影を落としていたのである。

   この理由は明白であった。これらは世間でよく知られる予算付けとおなじである。財務省・当時大蔵省が財布を握るごとく、隊員の充員・異動等を計画するところが強いのは当然の成り行きであった。

    当時、21年間にわたり、人事第2班は本来の所掌業務であり、かつ、人事機能の命脈である准曹士自衛官の部隊等への充員・異動等の骨幹となる充員計画の「計画」部門をもぎ取られ実行のみを担当する変則的な状態となっていた。

    したがって、空自の部隊建設、精強化、異動等のきめ細かな人事管理のため充員計画の一元化・計画と実行の一体化は緊急の課題であった。

2.  空幕と部隊を結ぶ 准曹士充員計画の計画と実行と生きた人事

    人事第2班長の職にあって、強く感じたことは、空幕と部隊等を結ぶ最大の糸は、准曹士充員計画の作成と計画の実行であり、それを主軸に生きた人事が行われたことであった。

    経歴管理基準の運用の裏づけは、部隊等への充員・配員、昇任・入校・各種要員の選定と実行によって行われ、一層きめ細かな人事管理がうまく循環するようになった。

人事第2班の機能発揮の基盤確立と 人事第2班長としての最大の喜び

     最初にして最後の空幕勤務において、利渉人事事課長の特命で人事第2班所掌業務の一部見直しを実施報告する機会を与えられ、対処策案が承認され、充員計画が本来のあるべき姿に戻り、人事第2班が一層機能発揮し、名実ともに准曹士人事の総本山としての基盤が確立された。

    人事第2班長を核心とした班が、各部隊等の人事担当と一体となって航空自衛隊の任務遂行に寄与できるようになったことが最大の喜びであった。

 

 

 

浜ちゃん日記 臨済宗天龍山洞雲寺の井伊共保公の碑

   NHKの大河ドラマおんな城主「井伊直虎」は、初回から毎回観ている。大河ドラマらしく好調である。ゆかりの浜松の「大河ドラマ館」は先日入場者が5万人を超えたと報じていた。

 井伊直虎のガイドブックを開いたら、「井伊家 ゆかりのマップ」には57か所がマ-クされ、写真とその由来が掲載されていた。残念ながらこのマップには載っていないが、昭和35(1960)年ごろから神久呂地区とは縁があり、臨済宗天龍山洞雲寺の境内に「井伊共保公の碑」があるのは知っていた。自衛隊を退官して数年後、平成5年から洞雲寺の檀家となり、境内に建立した墓には毎月2回お参しているからである。

 墓の近くに井伊共保公の碑はあり、井伊家との繋がりは古くから承知していた。特に、洞雲寺のパンフレットには昭和の時代から「井伊共保公の碑誌」が掲載されていたように記憶している。

 今回、青山新聞店の「あっぷるぱい」で、地域の皆さんに身近に「井伊家ゆかりの地・井伊共保公の碑」があることが紹介された。

 今年からは、浜松市ののぼりも立つようになり、みんなの関心が集まるようになった。今日午前は徒歩で墓参りを兼ねて散策し、天龍山洞雲寺の井伊共保公の碑に寄って見た。

1. 青山新聞店発行の「あっぷるぱい」の「近くにあった!井伊家ゆかりの地」 

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2.臨済宗天龍山洞雲寺のパンフレットによる井伊共保公の碑誌

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 《 浜松市西区神ケ谷町の歴史と由緒ある洞雲寺のパンフレットの一部 》

3.写真

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 《 浜松市西区神ケ谷町にある臨済宗天龍山洞雲寺の井伊共保公の碑 》

 

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《 井嶋五郎兵衛の祖・井伊共保公の碑及び井嶋一族の祖・井嶋五郎兵衛の碑の説明版 》

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《 井嶋一族の祖・井嶋五郎兵衛の碑 》

神原町花の会(花美原会)(232) 地域の花壇から始まるまちづくり・ひとづくり

 2月14日午後、浜松市及び浜松市花と緑の連絡協議会主催の「第9回浜松市公共花壇フォ-ラム」がクリエ-ト浜松で開かれ参加した。参加者は約200名ほどであった。

 主催者の浜松市鈴木康友氏及び浜松市花と緑の連絡協議会会長野尻啓子氏の挨拶に次いで、来賓の静岡県西部農林事務所長杉本祐子氏、はままつフラワ-パ-ク園長佐原 義彦が祝辞を述べられた。

 花の写真コンク-ル市長賞(最優秀賞)受賞団体・花壇の部はフラワ-タウン和地(野中真八朗代表)、花の部は水窪花の会(三輪こずえ会長)の表彰が行われた。

 基調講演は、講師の公益財団法人日本花の会花と緑の研究所主任研究員和田博幸氏が 演題「地域の花壇から始まるまちづくり・人づくり」について講演された。

 事例発表では、引佐町花の会、フラワ-フレンズ荘内、フラワ-ズ可美の3個団体の会長から活動状況が発表された。

【所感】

 毎回参加しているが、基調講演及び活動状況の発表に感銘を受けた。日本花の会花と緑の研究所主任研究員和田博幸氏の講演は、「地域の花壇から始まるまちづくり・人づくり」にあることを強調された。とても心強く思い背中を押される感じであった。

 3個団体の事例発表では、引佐町花の会、フラワ-フレンズ荘内、フラワ-ズ可美ののいずれも、長年にわたる活動に敬服した。言うは易く、行いは難しのごとく、その苦労がわかるだけに、その継続活動の秘密は何なのか最大の関心を持った。

 私共の活動の原点は、「神原町まちづくり構想」に基づいて始めたものであり、その方向性、活動の進め方に勇気づけられた。どんな組織の活動であっても、目的・目標の設定と活動の核心となるリ-ダ-の存在が不可欠である。

 事例発表の3団体の活動を見ても、代表の確固たるリ-ダ-シップが大きな要素を占めていることを強く感じた。

 

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《 主催者席 》

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《 来賓席 》

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 《 公益財団法人日本花の会花と緑の研究所主任研究員和田博幸氏が、演題「地域の花壇からはじまるまちづくり・人づくり」について講演された。》 

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《 日本花の会和田博幸氏 ばばまちづくりコンク-ルの責任者として活動されており、説得力のある資料を提示し説明された。地域の花壇から始まるまちづくり・人づくりへの発展となることを強調された。》

 

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《 会場は ほぼ満杯で女性が多かった。》

 

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《 事例発表、引佐町花の会の伊藤会長が活動状況を発表された。 》

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《 事例発表、フラワ-フレンズ荘内の中村明彦会長が活動状況を発表された。 》 

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《 事例発表、フラワ-ズ可美の佐野誉志照会長が活動状況を発表された。 》