浜ちゃん日記  昭和20年(1945年)8月と広島原爆による長兄の被ばく

1 昭和20年(1945年)8月国家存亡の月  

 今年の8月も残り少なくなった。当月は、例年を上回るかってない全国的な猛暑と台風の連続来襲と甚大な被害の発生があった。それにしても、わが国にとって73年前の昭和20年(1945年)8月は国家存亡の瀬戸際であった。8月6日に世界で初めての原子爆弾が広島へ投下され、8日には日ソ中立条約を破ってソ連軍が突如として満州に侵攻した。9日には長崎に原子爆弾が投下され灰じんに帰した。10日未明に開かれた御前会議は紛糾し、昭和天皇のご聖断によって、日本に降伏を要求したポツダム宣言を受託し、8月15日大東亜戦争は敗戦・終結した。

 時に、国民学校(小学校)4年の夏であった。当時のことは子供ながら新聞・ラジオで知っていた。後年、航空自衛隊大東亜戦争史をはじめとする外交・戦争の歴史を紐解きつつ、国家防衛の最前線で要撃管制官として空の守りに24時間・3交代勤務を通じて、國際における理想と厳しい現実、冷徹な国際条理を踏まえた世界観・歴史観を持つに至った。

 83年の人生を通して、平和とは、戦争とは何かを考える8月であった。

2 原爆投下と長兄の被曝 

  毎年8月6日は広島原爆の日、8月9日は長崎原爆の日である。世界で初めて原子爆弾が広島に、ついで長崎に投下された日である。今年は73回目の式典であった。

    また、広島の原爆投下では、陸軍に徴兵されて広島の連隊にいた大正3年生まれ、当時31歳の長兄が被爆し、数日後の夕方突如として、鳥取県のわが家に背中全部が焼けただれて、息絶え絶えに帰って来たこと。そのときの様子は子どもながら強烈な印象として記憶に残っていたものが蘇った。

   長兄は、8月6日の投下時刻午前8時15分には、連隊から離れたところで部隊行動中に被爆したもので、一瞬にして焼け野原になった写真で見るような生き地獄の様子を語ったことを両親・兄嫁等の側で一緒に聞いたことを覚えている。

    連隊の多くは死亡したり、連隊そのものが消滅した状況であったことから、列車を乗り継いでわが家にたどりういたのであった。

    長兄はさつそく倉吉の厚生病院で手当てを受け、大火傷も治癒に向かいかけた頃、連隊へ復帰していった。

   当時、宇野役場の兵事係は私の同級生の坂本弘行君のお父さん(坂本治四郎氏、戦後宇野村の収入役となり宇野区の発展に貢献された。)であり、適切に陸軍の関係部署への報告届け等が行われたものと思われる。

    原隊復帰後ほどなくして、昭和20年8月15日となり、大東亜戦争は敗戦・終結となり軍隊は解散、長兄は郷里宇野へ復員して来た。

    その後の長兄は定期的に厚生病院に通い、原爆の治療を経たのち、家業の農業に従事した。被爆後の治療は医学の進歩とともに充実して来た。被爆者として認定され、体調保持に苦労もあったであろうが、4男1女を立派に育て、昭和62年1月22日 73歳でこの世を去った。

* 長兄の被曝からも、核の廃絶等平和への思いは強いものがあるが、別の機会に述べることにする。