わが88歳の雑感( 283) 8月は慰霊と平和を祈念する月

 8月は、慰霊と平和を祈念する月である。

 長兄が78年前の昭和20年(1945年)に原子爆弾被爆した広島原爆の日6日をはじめとして、9日の長崎原爆の日.、12日の乗客乗員524人のうち520人が犠牲となった38年前(昭和30年・1985年)の日航ジャンボ機墜落事故、14日は、友人知人の初盆を迎えて遠州独特の風習である盆義理で7軒を弔問した。

 本日15日は、大東亜戦争敗戦のとなった終戦記念日であり、全国戦没者慰霊式の正午には黙祷をした。午後は、天龍山洞雲寺にお参りした。

 こうしたことで、今月前半は毎年のことながら心に残る月であった。

1  広島原爆の日 8月6日

    昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、長兄が広島の連隊で軍務中に世界で初の原爆投下で被爆した。数日後の夕方、背中が焼け爛れた凄惨な姿でわが家に帰った時のことを当時10歳の私は、今も鮮明に思い出すことができる。 

 広島市の推計によると、その年の原爆死亡者は約14万人言われている。

 その後、昭和30年(1955年)の20歳の時、ジェットパイロットを目指した航空自衛隊第1期操縦学生基本課程の部外研修で、初めて広島の原爆ドーム、資料館など訪れた時も強い衝撃を受けた。

 こうしたことから、毎年の広島における原爆犠牲者慰霊式典は、テレビで視聴し、静かに平和と犠牲者の平安を祈念している。

2  長崎原爆の日 8月9日

 長崎における原爆投下は、広島に次いで、昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分である。

 昭和47年(1967年)、空自幹部学校の指揮幕僚課程において、校外研修で長崎を訪れた。また、九州に2回勤務の折、家族旅行で長崎を訪れ、平和公園原爆資料館を見学し、原爆の実相を再び認識したものである。

 遥か昭和の時代、原爆で愛妻を亡くし、自身も白血病で闘いながら原子病の研究と発表を続けた永井隆医学博士の「わが子を残して」の著書には感動し、今だ強く脳裏に残っている。

3  日航ジャンボ機墜落事故8月12日

 38年前の昭和60年(1985年)、航空幕僚監部の人事課勤務時において、日航ジャンボ機墜落事故が午後6時56分ごろ発生した。第一報が入ってからの当時の空幕内の慌ただしい動きが蘇る。

 空自の諸部隊が群馬県上野村の標高1639mの御巣鷹山の尾根に派遣され、乗員乗客の救助・捜索にあたったものである。

 乗員乗客520人の犠牲者が出た中で、4人生存者の一人「奇跡の少女」が陸自のヘリコプターで救助員に抱き抱えられながら救助にされた様子は鮮明に記憶に残っている。当時の少女川上慶子さんは3児の母として幸せに暮らしておられるようで安心した。

 わが国の航空史上最大の事故であり、当時、陸自のほか、航空自衛隊は、最大規模の対処で、東京周辺の入間、浜松基地等から部隊が出動した。派遣部隊は実に過酷かつ修羅場の現地で活動した。

 派遣された多くの隊員や同期生の厳しい苦難の体験談は、今持って忘れることがない。どの部隊・機関においても、当時派遣任務を完遂した部隊史や体験記が残されている。

 今年も新聞テレビで現地の慰霊祭を見守りながら鎮魂と安全を祈ったものである。

4  初盆・盆ぎり弔問 8月14日

 14日は、シニアクラブの行事が、午前月曜会グラウンドゴルフ、午後定例会・防犯及び交通安全講話の後、長男の車に乗せてもらい、7軒の初盆の家を弔問し、盆義理を済ませた。

 各家庭も、しきたりの祭壇を設けて故人を迎えておられた。どの故人とも親しく遺影に向かって言葉をかけた。家族、親族が故人の霊を迎え、故人を中心に残された者の絆を強くすることは良いことである。

5  終戦記念日  8月15日

 本日は、戦没者を追悼し平和を祈念する日であり、政府主催の「全国戦没者追悼式」が、日本武道館で、天皇皇后両陛下をお迎えして行われた。NHKテレビで式典の模様を視聴し、正午の時報に合わせて黙とうした。

 昭和20年(1945年)の8月15日、当時10歳であった。猛暑の正午、わが家のラジオから流れた昭和天皇玉音放送大東亜戦争終結詔書」がガアガアの雑音の中で敗戦が告げられたことを覚えている。

 午後、女学生の姉と次兄の三人で宇野山を越えてわが家の梨畑に行き、二十世紀梨を取ってきた記憶がある。戦後は、軍隊の解散により、長兄も広島の連隊から帰ってきた。

 今年の「浜松市戦没者平和記念式」は、台風接近のため中止された。浜松市戦没者平和記念式は、遺族会が中心となり、隊友会、つばさ会も長年に亘り運営に携わり、警備・救護、案内など担当したが、数年前から一般社団法人の運営協議会が結成され運営されるようになり、隊友会、つばさ会とも離れることになった。それ以降は、参加しなくなった。

 また、住吉の戦没者墓苑が荒れ果てていたので、私が隊友会支部長時代から、清掃奉仕をしてきたが、近年、平和公園として整備されてきたので、こちらの方も離れることになった。時代の推移ということであろうか。

 

政府主催の「全国戦没者追悼式」

式場

総理大臣式辞

❸ 黙とう

天皇陛下のお言葉