航空自衛隊第1期操縦学生(2)  戦後初の操縦学生試験に挑戦

1.新制度の操縦学生として入隊

 昭和26年4月鳥取県倉吉東高校普通科へ入学、3学年の中途で諸般の事情から進路で悩み、大学進学を断念、方向転換するもうまく行かず29年3月卒業した。    

    卒業後は、親の元で再起を期し、翌年30年1月陸上自衛隊に入隊し、米子駐屯地における新隊員前期教育、続いて福知山駐屯地で後期教育を受けている途中、航空自衛隊第1期操縦学生試験に合格した。

    航空自衛隊入隊するため、陸上自衛隊をわずか5ケ月で退職し、引き続き、昭和30年6月大空の飛躍を目指して山口県防府市にある航空自衛隊幹部学校(のち幹部候補生学校に所属となる。)に入校し、「操縦学生基本課程」を学ぶこととなった。

 

2.操縦学生制度の創設

❶  操縦学生制度創設の経緯、背景 

    操縦学生制度創設に至る経緯については、第1期操縦学生徳田忠成君の「天翔ける群像 第1期操縦学生の軌跡」と海上警備隊から来た第1期操縦学生石井義人君の「大空にかけた青春 航空自衛隊第1機操縦学生の軌跡」に克明に記されているので一部を紹介する。

    また、「日本の防衛(防衛白書)」の防衛年表をめくってみると当時の国際情勢、軍事情勢の大きな流れの中で、日本の防衛力の整備がどのようにして行われたかを知ることができる。 

 なぜ「操縦学生制度」が創設されたかを知るにはまず、敗戦後の当時の日本の国のおかれた状況、三自衛隊、とりわけ航空自衛隊が創設された当時の時代背景を理解する必要があろう。

 

❷  警察予備隊・保安隊・自衛隊 

    昭和16年12月8日大東亜戦争が始り、約3年8ヶ月後、日本はポツダム宣言受託によって、昭和20年8月15日戦争は幕を閉じた。

    日本は無条件降伏、連合軍総司令部(GHQ)の指令により日本陸海軍は解隊され、完全に官民の翼はもぎ取られた。

 日本人の手による一切の航空活動は禁止され、現存する航空機は一部、米軍が実験用に本国へ持ち帰った機体以外は、そのすべてが廃棄処分されたり、かっての関係者が涙ながらに見守る中で、焼却処分にされた。

 その後、6年間というもの、日本人の手による飛行は皆無であったが、昭和25年6月25日に勃発した朝鮮戦争( ~昭和28年7月28日)契機に、連合軍最高司令官マッカ-サ-元帥は、国家警察予備隊7,500人の創設、海上保安庁8,000人増員を許可した。また、「国内の航空運送事業の運営に関する覚書」を日本政府に交付し、待ちに待った航空再開が近づいた。

 これにより同年7月に7万5千名の警察予備隊が編成され陸上自衛隊の基礎が築かれ、約2年後、昭和27年8月海上自衛隊の母体となる海上警備隊が誕生した。

 昭和27年4月1日の平和条約発効、さらには日米安全保障条約の締結とともに、同年10月保安庁が創設、保安隊と改称された。

 同時に、浜松に保安隊航空学校が設立され、米陸軍使用のⅬ-5及びⅬ-19連絡機による飛行訓練が開始された。

 その後、航空自衛隊創設の準備、防衛力整備計画の策定が進む中で、防衛庁設置法及び自衛隊法が成立、施行され保安庁は発展的に解消し、昭和29年7月1日防衛庁が設置された。陸海空3自衛隊が発足した。

 これに先立ち、昭和29年6月1日、保安隊には航空自衛隊創設準備のために宮城県松島基地に臨時松島派遣隊が編成されていたが、防衛庁設立と同時に航空自衛隊に移管され、パイロット基幹要員養成の訓練基地となった。

 航空機配属問題は、保安庁内部で紛糾、三幕が航空機の保有を主張して譲らなかったが、その経済性、対立の懸念、陸・海・空分離の非妥当性が検討課題となった。

 昭和29年7月に航空自衛隊が創設された2ケ月後に、長官指示により「基本的には航空機及び航空機関係諸業務については、航空自衛隊、内局及び付属機関において、統一的に行うことを原則とする」により、航空自衛隊が主任務を担う行うことになった。ただし、例外として、陸上自衛隊は連絡機、ヘリコプタ-の運用、海上自衛隊は対潜哨戒機、ヘリコプタ-運用を認めるものだった。

 

❸ 昭和30年4月当初目標 33飛行隊編成構想

 昭和29年9月に出された「第9次防衛力整備計画」で、ようやく、「航空部隊は実用機718機、練習機420機、計1,138機」と、初めて具体的に明記された。

 これを基礎として、昭和30年4月、航空機1,300機態勢、33飛行部隊編成が、当初の防衛力整備目標となった。

 航空自衛隊の最大の急務は、その中心として任務遂行に当たる航空機1,300機、33飛行隊の編成という防衛力整備構想に伴う、操縦者の養成であった。早速、5ヶ年計画が策定され、この間に、実に2,000名ものパイロット養成が計画された。

 

 戦後初の操縦学生制度の創設

 このような時代背景の中で、昭和30年6月、航空自衛隊操縦学生制度(昭和37年度から「航空空学生」と改称)が創設され、以来、航空自衛隊の中枢となるパイロットの養成が始り、来年で60周年を迎えるに至った。 

 創設当時の33個飛行隊設立は、その後防衛計画の変更により、実に13個飛行隊に激減、「パイロット過剰」の現実と直面した。

 こうした政策変更は、第1期操縦学生をはじめとする創設期の若人が、厳しい操縦適性上の淘汰による進路変更、民間への割愛などへとつながっていったが、時代は優秀な人材を求めており、創設期の航空自衛隊の建設、民間航空の基盤発展に多大な貢献をすることとなった。

 航空自衛隊の創設期は、いろいろな面で未整備な面があり、操縦学生も防衛政策の変更に翻弄された面もあるが、いつの時代も新しいことを始めたときはどの分野でも同じことが生じるものである。今や時代は移り変わり航空学生制度も長い歴史と伝統が培われ、航空・海上としっかりとした充実した制度となり発展している。 

 普通であれば、4月1日の採用入隊であろうが、第1期操縦学生は6月2日と中途半端になったのは、「操縦学生及び操縦幹部候補生の任用教育等に関する訓令」が、昭和30年7月14日付であることからも諸般の事情があったことが伺われる。

 

❺ 優秀な人材の集結と各方面での活躍 

 それにしても、創設期の操縦学生の応募人員は、第1期生と9月1日入隊予定の第2期生が同時に受験し、約7,000名となった。採用通知後の辞退者、着隊後の身体検査の不合格等で第1期生207名、第2期生48名が入隊した。前者が34倍、後者が27倍の競争率であった。

 いずれにしても一騎当千の強者が集まり、鍛えに鍛えて、その後、航空自衛隊はもとより民間においてもその能力をいかんなく発揮した。

 その一つが、ブル-インパルスの活躍である。昭和39年10月10日、東京オリンピック開催日初日、メインスタジアムの代々木国立公園上空の澄み切った青空に、見事な五輪のマ-クは日本の歴史上の快挙として語り継がれている。 

 その五輪を描いたブル-インパルスのパイロットは、5機のうち3機が第1期操縦学生出身であり、当時2尉だった2番機・淡野徹君、3番機・西村克重君、単独機・藤縄忠君の3名であった。彼らは実に操縦者として資質能力はもとより人格識見に優れた人材であった。今もってよくテレビに登場する。

 その後3名は日本航空に入社し、ジャンボ機長として大活躍した。また、ブル-インパルスの在任期間の長かった村田博生君は、飛行部隊指揮官、上級司令部運用幕僚で大活躍し、退官後は航空ファンの知る人ぞ知る航空専門家として活躍し、「ファイタ-パイロット」の著者でもある。 

 

2.操縦学生採用試験の募集 

   私が戦後初の「 操縦学生」募集を知ったのはいつだったのか記憶が定かではない。

    高校3年の中途で大学進学を断念、進路変更して卒業し、親の元で再起を期している折、操縦学生採用試験募集を知ったのではないかと思われる。

     昭和30年1月末、陸上自衛隊新隊員入隊時、唯一の持参品はトランク1個で、その中に高校の参考書だけを入れていたことを鮮明に覚えている。

    操縦学生試験の受験勉強をするためであったことは確かである。この点から陸上自衛隊へ入隊前の昭和29年秋〜冬ごろであったのではないかと思われる。

    徳田君の著書によると

    航空学生制度の目的は、将来における新進気鋭の航空自衛隊パイロットの養成のため、高等学校卒業者の中から、心身ともに優秀かつ適任者の選抜ということで、最初は100名の募集予定であった。

    募集日程は、次のとおりであった。

昭和30年3月1日     第一次試験

昭和30年3月23日〜26日第二次試験

昭和30年5月17日   採用通知

昭和30年5月下旬     入隊

    応募資格の要点は、日本国籍を有する男子で昭和30年4月1日現在、年齢満20歳未満満18歳以上、ただし、自衛官から志願する者は、満2Ⅰ歳未満の高校卒業者または卒業見込みの者となっていた。

      反自衛隊感情が強い時代であったから、この募集書類が、全国の高校宛に送付されたとき、日教組から文句が来たという。と記されている。

 

3.操縦学生試験志願の理由

    昭和29年7月発足した航空自衛隊において、戦後初のパイロットを養成する「操縦学生」の募集が行われることを知り、所定のパイロットの教育訓練の後、幹部になれるとのことであった。

    それがいかに厳しいものであるか知る良しもなかったが 「これだ」と思った。

    子供の頃から運動能力は人並み以上と自認していた。小学校、中学校生活では体格も良く運動は得意な方であった。

    これなら大空へ飛躍が出来そうだと思い、操縦学生試験に挑戦してみようと決心した。誰かに勧められたりではなく自分で進路を選んだ。

    もう一つは、戦後初めての新人パイロットを養成する制度かできたことに大きな魅力を感じたことであった。

     これは操縦学生課程に入って分かったことであるが、パイロットになりたいと大学に入学したばかりなのに退学、休学してきたものが多かったことである。

   また、日本が大東亜戦争に負け全ての翼を奪われていたが、航空自衛隊はもとより民間航空の揺籃の時期にあったことである。新しい時代が到来し、優秀な若者を求めていたことが背景にあった。

     これにより創設期の航空自衛隊の飛行隊及び民間航空の基盤作りに貢献することになった。

 

4. 操縦学生採用試験

    早速、採用試験(1次・筆記試験を受け、さらに2次・口述面接試験・身体検査・適性検査)を受験することになった。

     1次試験は、受験地は米子駐屯地内で行われた。多分100名前後の受験生がいたような気がする。入隊訓練中であったので制服姿で受験したが、制服の受験者もかなりいた。   筆記試験は、5答択一で5時間、社会・国語(甲)・数学(解析Ⅰ・Ⅱ)・理科(物理・化学)・英語の5科目であった。

 

5.第2次試験と結果

    操縦学生1次試験 に合格し、2次試験は中部方面総監部の所在する伊丹駐屯地で受験した。試験内容は、身体検査(一般、精密検査)、面接、適性検査(筆記式)であった。

    米子駐屯地から同じ新隊員であった同年代の田中君と一緒に受験した。

    米子から福知山山陰本線の往復の車中でいろいろと夢を語り合ったものである。

    残念ながら彼は合格しなかったが、向学心に燃えており、その後、厳しい訓練演習を乗り越えて大学の通信教育を卒業した。その後どんな人生を歩んだであろうか。人生は様々であることを学び励された。

 

6.退職と新たなる旅立ち

    昭和30年6月1日付で陸上自衛隊を退職し、翌6月2日付で航空自衛隊に入隊した。

    入隊にあたっては、山陽本線三田尻駅(防府駅)に降り立ち、学校から案内された防府天満宮近くの旅館に宿泊した。

     旅館では、全国から集まった同期となる若者が多数おり賑やかであった。これから一緒に同期の桜となるかと胸が高鳴った。

   翌日朝、自衛隊の車両で防府南基地へ向かい、営門をくぐった。新しい希望に満ちた厳しい人生の始まりであった。

入隊式・入校式は、6月3日午前10時に挙行された。

 

f:id:y_hamada:20140423150416j:plain

《 昭和30年6月3日 満19歳、「6月2日付で航空学生2等空士」に任命された。多分、基地内の写真屋さんで撮影したであろうか。アルバムをめくってみると、両親にこの写真を同封して「入校式の日に故郷の両親に第1信を送る」とある。無事に入校式を終えたことを報告したのであろう。当時、今は亡き両親は末っ子の私の姿を見てきっと安堵したことであろう。いつの時代も親が子供に寄せる愛は変わらない。》

 

f:id:y_hamada:20140423151652j:plain

《 昭和30年6月3日午前10から島田航一幹部学校長の元、厳粛な入校式が挙行された。ネクタイ、白手袋を着用しで整列、代表が「服務の宣誓」をしたであろう。式典後、基地内で同期生に撮ってもらったスナップ写真であろうか。同期生は第一期生らしく、のびのびとしてやんちゃで元気がよかった。後年、実に逸材ぞろいの強者の集団となっていった。》