1.霧につつまれた営庭
福知山駐屯地と言えば、現参議院議員で全国的に知られている「ヒゲの隊長」で活躍した佐藤正久 氏が第7普通科連隊隊長をした駐屯地である。
昭和30年1月陸上自衛隊に入隊し、米子駐屯地で前期の教育訓練を受けて無事に終了し、同年4月後期教育のため京都府福知山市にある福知山駐屯地の第5新隊員教育隊へ.部隊移動した。ここは第7普通科連隊の所在地である。
それにしても 福知山駐屯地は、私にとって本当に短い在隊期間であった。
福知山の街中を散策してして歴史のある城下町を見学する暇もなかった。
訓練に明け暮れていた私にとって楽しむ時間とゆとりがなかったのが惜しまれる。
いつの日か自分の歩んだ道の一つとして訪れてみたいと思っている場所である。
福知山駐屯地は、昭和30年の在隊時は建物も全体に旧軍の名残のものが多く、便所など改修されてはいたが旧軍からのものを使っていたと記憶している。
当時、5月ごろ毎朝営庭が靄に包まれ、かすかに先が見渡せるほどの幻想的な世界が展開したことが今でも強烈に脳裏に残っている。
午前の訓練開始時になるとからりと晴れあがり、早朝の濃霧はどこへ行ってしまったのかと思うほど不思議な気象現象が思い出される。
そのような幻想的な霧が立ち込める営庭で連隊本部付近から、ラッパ手が吹く日課時限の知らせが風に乗って耳に届いた。
昼間は訓練に明け暮れて忙しい毎日であったが、すべての日課が終了し、物悲しい哀愁を帯びた消灯ラッパの音色を聴きながら、ベッドの中に入り横たわるとこれからわが人生はどのように展開するのかといろいろな思いを馳せたものである。
そして、昭和30年5月17日ごろ操縦学生合格通知と幹部学校入校の案内を手に大空へ羽ばたく夢を描いて、5月末になると未知の「第1期操縦学生」の山口県防府の地へと転じていった。
福知山駐屯地の沿革
はるか60年前のことになるので、福知山駐屯地ホ-ムぺ-ジから紹介する。
福知山駐屯地は、古くは城下町として栄えた京都府福知山市中心街の西南に位置し、JR福知山駅から約1㎞の所に位置しています。
駐屯地には、明治31年大阪府から移駐し「健脚聯隊」として全国にその名を知られていた旧陸軍歩兵第20聯隊と第120聯隊が駐屯していました。
終戦後は旧国鉄が教習所として使用していましたが、昭和25年朝鮮戦争の勃発に伴う警察予備隊創設発表に伴い、福知山市はいち早く誘致運動を開始し同年11月誘致が決定し、多くの市民の歓迎を受け12月に1874名が到着「警察予備隊福知山駐屯部隊」を編成しました。
その後昭和27年保安隊、29年に自衛隊と改編を重ね現在約1000名の隊員が日々訓練に励むと共に、周辺地域の行事にも参加支援を行い「地域社会との一体化」を図っています。
連隊の装備など見ると、甲装化と機動化が進み60年前と比べて雲泥の差があることが分かる。
福知山に駐屯する第7普通科連隊の 保有する装備品を紹介 |
《昭和30年在隊当時の面影はこの画面からは見当たらないが、隊舎は新しくなったが、広い営庭一面が朝靄にかすむグランドが目に浮かぶ。教育訓練中に精鋭第7普通科連隊の隊員の姿を見ながら教育訓練終了後はきっとこの伝統ある連隊に所属するであろうと思った。》
第7普通科連隊歌 |
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1 春爛漫(はるらんまん)の吉野山 歴史は古し橿原(かしはら)の 遠き祖先の血を受けて あかき心のますらをが 聞かずや挙ぐる雄叫び(おたけび)を 使命は重し七連隊 2 夏波しぶく日本海 由良の浜辺に屯(たむろ)して 水に鍛えん若人が 夕べかがりの団欒(だんらん)に 心にかかる雲もなし 団結固む七連隊 3 琵琶湖のほとり秋たけて 仮寝(かりね)の野辺にすだく虫 夢は家路を辿(たど)るとも 一度起たば君見ずや 闘魂こめし必中弾 精鋭ほこる七連隊 4 冬凜列(ふゆりんれつ)の加古嵐 かぶとに白し朝の霜 凍る剣(つるぎ)に血も通い 練武の道は一すじに 誠実(まこと)貫く意気と技 勇武厳(ゆうぶげん)たり七連隊 5 見よ東(ひんがし)の空あかく 行手の幸を告ぐるとき 撓(たゆ)まぬ努力先人の 樹(た)てし勲(いさおし)承けつぎて 輝く歴史築きゆく 七連隊に栄あれ 七連隊に栄あれ |
2.普通科(歩兵)の教育
陸上自衛隊米子駐屯地の新隊員前期教育が自衛官の基本事項の共通教育訓練に対し、福知山駐屯地における後期教育は、職種別の専門の教育訓練である。第7普通科連隊が所在し落ちついた駐屯地であった。
ここでの教育訓練は普通科へ進む隊員に対して専門技術を教えた。要するに歩兵の養成である。
当時、近くの訓練場で機関銃、バーズカ砲等の取り扱いについて徹底した訓練を受けている最中に、戦後初の高卒パイロットを養成する「第1期操縦学生」採用通知を受けとり、昭和30年6月1日付で陸上自衛隊を退職し、翌日付で航空自衛隊へ転じるこことなった。
《福知山駐屯地・第5新隊員教育隊における後期教育、実質5カ月の短い陸上自衛隊新隊員生活であったが、独り立ちの人生の出発点であり、心身をともに充実した日々を過ごした。》
3.パイロットを目指して新たなる旅立ち
昭和29年7月1日に創設された航空自衛隊にとって、最大の懸案はパイロット要員の確保であった。
このため高校卒の優秀な人材を集めパイロットを養成するため、戦後初の「操縦学生」制度が創設された。
昭和30年1月末に陸上自衛隊に新隊員として入隊前後と記憶するが、航空自衛隊で「操縦学生」制度が創設され、所定の教育訓練課程を終了すればパイロットになれ、6年後には幹部になれるとの募集を知った。 早速、願書を提出した。
米子駐屯地で新隊員教育訓練中に、3月1日操縦学生第1次試験(学科試験)を受験した。当日の駐屯地の試験場は受験者が多かったのを覚えている。
幸い、1次合格を経て3月23日~26日第2次試験(面接試験・適性検査・身体検査)を伊丹駐屯地で受けた。
戦後初のパイロットへの道ということで、競争率34倍であった。合格者200名、郷土鳥取県からわずか3名であつた。
3名のうち、最終的にバイロットとして大成したのは、戦闘機操縦者として活躍し、その後日本航空で機長となり、国際線で世界を駆け巡り、査察操縦士となった徳田忠成君1人であった。
徳田君は、退職後、精魂を込めて「天翔ける群像 第1期操縦学生の軌跡」
(平成17年8月31日発行 編集者徳田忠成 出版社ジョス)を編纂し、内容の充実した操縦学生に関する第1級の資料を残した。
私は、初級操縦課程で適性面から地上勤務へ転進し、再び一般隊員として勤務し、部内選抜の幹部候補生を経て航空自衛隊で自分なりの新しい人生を歩んだ。
もう1人は、操縦学生基本課程を終了した後、自分には合わないと郷里に帰っていった。これも彼らしい選択であった。きっと彼なりの心豊かな人生を送ってきたであろう。
鳥取県出身の 第1期操縦学生の3人だけを取り上げても、 三人三様の人生があつた。これが人生である。