団体の長が自ら決すべき退任をめぐる出処進退をどのように考えたらよいか!

 トップに立った人の退任をめぐる「引き際」ほど難しいものはない。
ある日ある場所の式典で、主催者の代表が老齢で周りの人に助けられ登壇して式辞を述べる姿を見かけたことがある。内容についてはあらかじめ書かれたものを読むので問題ないが、はたから見ていて痛々しかった。社会的な活動で功労のある方であったが何年かそれが続いたのち交代退任され、ひとごとながら「ほっと−」したことがある。もし、身内の者がその場にいてその姿を見たら、きっと驚き即座に引退を勧めたであろう。
 こうしたケ−スの場合、何人でも後継の適任者がいるにもかかわらず、周囲の人たちは十分わかっていても本人が「交代退任の意思表示しない」ため、ずるずると進み、忠告・助言をする人がいない、しづらい場合があるようだ。ましてや、鈴を付ける役目をやる人もいない。
 団体といってもいろいろあるが、特定の個人が中心となって活動するものを除いて、社会的な活動をする団体には会則等があり、会長・代表についての取り決めがある。大体が役員の互選であリ、任期も決まりがあるが、日本の風土として本人が辞めるという強い意思表示がない限り、継続をお願いする傾向が強い。
 シニアクラブの場合でも、驚くほど長い間会長をやっているケ−スを見聞きすることがある。そのクラブには、他では計り知れない事情があると思われる。もちろん適任でありそれなりの功績をあげておられるから再任されたであろうが、多くの場合、はっきりとは語られないいろいろな内情があったりする。
 それは、本人が後継者を作らない、その意思がないため後継者が育たない、後継候補がいても次にバトンタッチする意思を表示しない、後継者を作っていないから次の方を探そうとしてもすぐには見つからない。結局「会長候補がいない、見つからない」ことを理由にそのまま継続するといった悪循環?を繰り返すことになるようだ。ついには、会長になり手がなくて活動を停止したり、解散することもある。トップが自ら組織を弱めているケ−スがある。
 その背景の一つに挙げられることは、会長の座を社会的な地位・名誉と認識している場合がある。昔は地域において自治会長、老人会長、婦人会長などもその地域における名誉的な象徴・地位であったり、「座りの良いおかざり」であった面もあったが、時代とともに団体における会長の役割は大きく変化してきている。名誉職でもなくお飾りでもなく、団体の先頭に立って構成員を引っ張っていく「実行力」・「世話力」・「奉仕力」が求められている時代になったと思う。
 どの団体でも、副会長を置いている。その役割は会長不在の時その職務を代行することだ。副会長に選任するとき、次期会長の最有力としていつ会長になってもよいように意思疎通をし、組織活動の円滑な運営に努める必要があるのではなかろうか。
 団体の長になった者の最大の責務は、次の後継者を決めて育成することだと言われている。後継者を作れない、作らないトップは、どんなに人格識見が優れ業績を上げても一番大事なことが欠落しており、団体にとっては落第であり、責務を果たしていないことになる。
 団体は、今日も明日も活動し発展をする社会的な存在である。団体の長にとって、その団体に対する責任とともに社会に対する責任も付随するものだ。会長に就いたその日から次の後継者を育成する責務が始まり、全力の活動奉仕、最後は自らの出処進退・退任のタイミングをどうすべきかの課題を背負うこととなる。最後は自らが決すべきだ。団体のトップに立った人にとって、後継者の育成と最後の出処進退、いわゆる引き際は本当に大事なことであると思う。