第14回東海鴨水会(鳥取県立倉吉東高)同窓会(会長八嶋 厚氏)の総会・講演会・懇親会が、11月9日(土)17:00から名古屋市中区錦の東京第1ホテル錦で行われ初参加した。
東海鳥取県人会、東海鴨水会の可世木博氏には、浜松鳥取県人会の総会・懇親会に来賓としてご出席いただいており、毎回、東海の鴨水会及び鳥取県人会へ参加案内をもらっていたこと、その盛況ぶりは参加者から聴いており、機会があれば、ぜひ一度は参加したいと思っていたからであった。
母校の鳥取県立倉吉高等学校は、明治42年開校、昨年創立110周年であった。同校を昭和29年に卒業して半世紀以上の歳月が流れたが、鳥取県の中部に位置する倉吉市にある「文武両道」と「自主自立」の進学校で学んだ高校時代は懐かしいものである。
若い頃から鳥取に帰省したら、用事を終をえてから、必ず倉吉の街並みや打吹公園を散策し、打吹だんごを賞味したものであった。
航空自衛官の現職時代は、府中の航空総隊司令部勤務及び桧町の航空幕僚監部、航空自隊調査隊に勤務した当時、在京の鳥取県人会、倉吉東高のニクメンバ-会によく出席したが、定年退官後は歳を重ねるにつれて参加の機会が減ってきた。
今回、東海鴨水会(倉吉東高)同窓会には、大東亜戦争時代に鳥取県から輩出した文部大臣橋田邦彦先生に関する講演があるというので、参加することにした。
先ず、案内状を手にしたときに、元文部大臣橋田邦彦先生に関する講演があることで、子供の頃ではあったが、当時のことをおぼろげながら覚えていたので、パッと橋田元大臣にまつわる事柄がすぐに浮かんてきた。
橋田邦彦元文部大臣については、
❶小学生の時に、二つ隣村の長瀬村から初めて大臣が誕生したと話題となったこと、学事視察で鳥取県訪問の折、わがふるさと宇野村安楽寺を訪問されたこと、日の丸の旗を持ってお迎えしたことがあったように憶えていること、また、終戦直後、戦争犯罪人の指名を受け、自宅で自決をしたこと。
❷羽合中学時代に長瀬にある橋田邸の長い立派な塀が今日に至るも強く記憶に残っていること、とりわけ郷土から誕生した初の大臣の家であるとのことで、羽合中学、長瀬小学校に近く、興味深く塀の下をよく通ったことがあること。
❸手元にある郷土史「羽合町史」に「文部大臣橋田邦彦」に関する記事が14ぺ-ジにわたって記述されており若い時代から関心があったこと。自決に至るまでの状況は、「羽合町史」に詳しく記述されていて、文相の学者としての信条、人生観からくる「勝者が敗者を裁く、不公平な取り扱い」に対する思いなど理解できるものがあった。
❹橋田邦彦先生の妻となるきみゑ夫人が宇野村の安楽寺からの出であること、安楽寺は子供の頃、夏は境内で盆踊りをした。また、毎年おたいやの時期は、父に連れられて法話を聞きにいったことがある、などがあった。
さらに、常々、東海鳥取県人会、東海鴨水会の世話役をされている医師可世木博氏の故郷鳥取に寄せる熱烈かつ献身的に尽力されている人柄に惹かれていたことなどがあり、ぜひ講師倉吉図書館長山脇幸人(倉吉東高昭和54年卒)の講演「橋田邦彦とその周辺」を拝聴したいと思った。最近は、家人からの願いもあり、年齢的なことを考慮して一人での夜間の遠出はしないことにしているが、今回だけはと浜松から出かけた。
久しぶりに、名古屋に新幹線で出かけた。名古屋駅の観光案内所で地図と地下鉄の乗り場の説明を受けて、地下鉄東山線に乗り、栄で降りた。
地上に出たらホテルの場所がわからないので。ホテルへ2回電話で方向を教えてもらいたどり着いた。最近は静かな田園地帯で暮らしているせいか、車と人混み、騒音を久しぶりに味わっことになった。
橋田邦彦先生に関する話を拝聴すると共に久しぶりに、母校の校歌と応援歌を歌い、高校生時代を思い出したものである。参加者の中では、昭和29年卒は古くなったが、しばし青春時代にかえることができ元気をもらうことができた。郷里のお酒を飲み、懐かしのちくわを食し、楽しいひと時を過ごして浜松に帰ってきた。
1 総会・講演会・懇親会の次第
《昭和36年(1961年)橋田邦彦の遺徳顕彰会が打吹公園に建立した頌徳碑》
2 来賓及び役員
3 全員の記念撮影
4 総会・懇親会の模様
4 総会
❶ 司会 可世木 博氏) (昭49卒)
❷ 会長挨拶 八嶋 厚氏 (昭50卒)
❸ 来賓挨拶
〇鴨水会副会長 手石 幸洋氏 (昭44卒)
〇 倉吉東高 教頭 桧 佳憲氏
❹ 議事 会計報告等
5 講演会
❶ 演題 「橋田邦彦とその周辺」
講師 倉吉市立図書館・館長 山脇幸人氏(昭54卒)
「橋田邦彦とその周辺」について、橋田邦彦先生に関する要約、年表、レジメの資料配付とプロゼクタ-を使って、熱誠を込めて講演をされた。
特に、橋田邦彦先生の研究者としての功績、教育者としての功績、東洋思想・仏教への造詣から「正法眼蔵」の研究などの功績を強調された。短時間のうちに要領よくまとめられ、素晴らしい講演内容であった。
❷ 文部大臣の就任と自決について
橋田邦彦先生の文部大臣の就任と自決については、羽合町史(羽合町は、町村合併により、「湯梨浜町」となる。)が記述しており、今日から見ても適正な評価であると考えるので付記した。
【所感】
講師は、東條内閣の一員となった橋田文部大臣が、敗戦直後、占領軍の戦争犯罪人の指名により自決に至った経緯などについては、あまり触れられなかった。門外漢のわたくしから見ても、橋田邦彦先生の功績は絶大なものがあり、戦争犯罪人の指名は不当なものであったように考えるが、当時としては占領軍の支配下にあった。
橋田邦彦先生の学者・文化人・政治家としての本領はいささかも変わるものがないであろう。
大東亜戦争一つとっても、歴史観によって、その見方と評価は大きく異なることがある。特に大東亜戦争の評価については、敗戦により勝者が敗者を裁いた歴史観は徹底したものであった。戦後のわが国の憲法はもとより政治・経済・社会・教育・文化などすべてにわたって徹底して勝者の立場からの改革が行われたからである。
【追記】文部大臣就任と自決 羽合町史から転載
《 羽合町史 758~759)ぺ-ジ転載 》
6 懇親会
❶ 乾杯 西村 憲一氏 (昭27卒)(最古参年次)
❷ 来賓挨拶
〇 鳥取県名古屋代表部所長 吹野 之彦氏
〇 関西鴨水同窓会会長 立石 斉氏 (昭40卒)
〇 東海鳥取県人会・事務局長 伊藤 巧氏
❸ 懇談
❹ 自己紹介 省略
❺ 校歌・応援歌
7 参加写真
❶ 自己紹介
❷ 昭28 ・29卒の懇談