昭和の航空自衛隊の思い出(431) 最終編「調査隊時代と定年退官」を綴るにあたって

1 「昭和の航空自衛隊の思い出」の最終編を綴るにあたって   

 先日、ある自衛官OBと話していたら、私のブログを読んでくれているらしく、「よく昭和の時代のことを覚えているね」と問いかけられた。5月1日から平成から令和へと元号が変わる。自分にとって昭和の時代は、「生きた時代」であり「生きた証」でもあり、ついさきの出来事のように思えたる。若い世代からすれば、私が明治時代を遠くに感じるごとく、昭和はまさしく同じ感覚であり、いわゆる「歴史」として受け止めるではなかろうか。

 ここのところ「昭和の航空自衛隊の思い出」は、航空幕僚監部の勤務まで進み、最後の防衛庁長官直轄部隊である「航空自衛隊調査隊」勤務については残してきた。平成の時代に昭和のことは終わっておきたいと思っていた。ついに平成時代の終わりが近づいてきた。

2 ブログを始めた2度のがん経験と生かされた命
 かって、平成25(2013)年5月、がん発病、入院手術を機にブログを始めてから、6年がたち、ブログ日数はすでに「2100」を超えた。人間誰でもそうであるが、全く自分ががんになるとは思ってもいなかったし、ましてや2度がんを患うとは想像だにしていましませんでした。

 人の運命、人生の岐路とは不思議なものである。あの時逝くべき運命であれば、すでにあの世に逝っていたであろう。まさに「生かされた命」として生きている。こうして今日に至るもブログを綴れるのも、運命そのものではないでしょうか。

 まもなく満84歳となる。大抵の高齢者は夜ともなると早く床にはいっているようであるが、家内からは「歳を考えて・・」といわれるぐらい、遅くまでブログを書いていることが多い。やれることはその日にやっておきたいとの思いが強いからである。これもすべて自分のことは自分で出来る。持病はあっても病院へは月に1回程度、定期診断・検査に行くのみで、薬も毎夕1粒を飲むのみである。本当はそうでないが、外形は元気そのものである。世間一般の同年代の高齢者と比較し少し元気なので、歌の文句じゃないが「ありがたや」「ありがたや」である。

 ブログの中で、最も力を入れてきたのが、「昭和の航空自衛隊の思い出」である。ここの所中断していたが、いよいよ最終編の「調査隊時代と定年退官」に入りたいと思っている。何しろ遥か昔のこととなってきたので、古い手帳・日記・メモや資料で事実関係を確認したり、思い出したりしてまとめることにした。これが終わればこれらの資料等はすべて破棄することにしている。
 ブログも、昭和の時代のことは、私と一緒に勤務した方もすでに鬼籍に入られた方が多くおられるようになってきました。ご冥福を祈りながらご迷惑をかけない範囲で認めてきました。登場された関係者の子供さん、お孫さんからは、「若い時代のおじいちゃんはこんな人だったか」と懐かしのコメントを多くいただきました。とても嬉しく思いました。

3 「昭和の航空自衛隊の思い出」の根底にあったもの
 「昭和の航空自衛隊の思い出」については、次のような考えで綴っています。
「昭和の航空自衛隊の思い出」----その時何を考え立ち向かったか
 昭和30年6月から平成2年3月まで35年余にわたって航空自衛官として部隊・機関・団、方面、総隊の各級司令部・航空幕僚監部に勤務した。この間どんなことを考え立ち向かったのか人生の総決算としてまとめがらブログ化しているものです。
 特に才能に優れたり、飛び抜けた功績があったわけでない。言うなればどこにでもいた普通の自衛官の一人であった。強いて言えば操縦学生から転進した部内幹部出身であったということぐらいであろう。
 昭和の航空自衛隊の全体像を私ごときが語ることなど毛頭考えてもいないし、出来ることではない。大組織にあって、一隊員の勤務経験などたかがしれているが、私が歩んだ足跡を基軸に自衛官人生を綴ることはできる。
 その主点は、昭和の航空自衛隊に勤務した当時を回想し、自衛官の勤務経験と生活を軸に、どのように勤務し、どんな問題と取り組み、何を考え、行動したか。どんなことに悩み、立ち向かったかなどを「昭和の航空自衛隊の思い出」として綴っているものです。
 自衛官生活を振り返って、昭和の自衛隊は、すべての隊員に「創造」「挑戦」「前向き」が求められ、その気になればいろいろなことができた時代であった。それぞれの階級・職位でその枠を超えてやるべきことをやれた達成感、満足感、充実感があったことである。