昭和の航空自衛隊の思い出(381 ) 「昭和の航空自衛隊の思い出」を綴るについて

1.ブログを始めて1,273日

 まったく予期せぬがんの発病手術をきっかけにブログを書き出したのが、平成25年2013)5月6日であった。あれから早いもので3年6月が経とうとしている。

ブログ日数は1.273日、投稿数1,358となった。この頃は私の生活の中でブログを書くというのは一つの日課のようにもなってきた。

 現在、ブログの中で仕分けしている項目・分類で回数が多いのが、「昭和の航空自衛隊の思い出」です。回を重ねること、381回となりました。現在、 航空幕僚監部における勤務当時のことを綴っていますが、退官まで数年であり先が見えてきたような気がします。

 人間の記憶というものは不思議なもので、歳月が経つにつれてどうでもよいことはしっかり覚えているのに、肝心要なところは忘れてしまっていることが多いことに気づきます。

 航空幕僚監部勤務は、忙しかった割には当時の手帳・日記にしっりとメモなどが残っているので、差し支えない範囲で認めております。自衛隊勤務に関わるブログが終了すればきれいさっぱり手帳・日記類も裁断処分することにしています。立つ鳥は跡を濁さずのとおり、自分の人生の大半を過ごした自衛隊に迷惑をかけないよう心しています。

それにしても、八十路坂を上ったり下りたりしていると、ブログを書いた後で、表現の至らない点や誤字脱字に気付くことがあります。一概にパソコンのせいではなく、恥ずかしい限りで、気が付いたらその都度修正しています

 今年も師走の月を迎えたが、わたくしのブログにも登場された、かって一緒に仕事をした先輩・上司や仲間の訃報、喪中のはがきをいただくものが多くなりました。まさに昭和は遠くなりつつあります。

 

2.航空自衛官生活35年余の最終段階

 いよいよ、「昭和の航空自衛隊の思い出」は、航空自衛官生活35年余の最終段階に近づいてきました。航空幕僚監部という航空幕僚長をトップとする巨大組織の一員になって、班長職で人事施策・人事管理に参画する機会を与えられたことは、自衛官生活の総決算という面からも有意義な毎日であった。

 自分たちの時代にできなかったことが実現したり、時代の新たなる進展とともに充実発展している二ュ-ス記事を「つばさ会」「隊友会」「自衛隊父兄会」、連合幹部会「翼」、浜松基地新聞「遠州灘」などで接すると嬉しくなります。

 インターネットでは、時折、防衛省自衛隊航空自衛隊のホ-ムペ-ジを開くことにしております。

 私のつたないブログに立ち寄られた方が、なんで今ごろ昔のことを書いているいるんだろうかと思われる方もあるであろうし、どんな考え、立場で書いているだろうかと思われる方のために、定期的に   「昭和の航空自衛隊の思い出」----その時何を考え立ち向かったか を掲載することにしています。

 

3.「昭和の航空自衛隊の思い出」----その時何を考え立ち向かったか 

    昭和30年6月から平成2年3月まで35年余にわたって航空自衛官として部隊・機関・団、方面、総隊の各級司令部・航空幕僚監部に勤務した。この間どんなことを考え立ち向かったのか、人生の総決算としてまとめがらブログ化しているものです。
 特に才能に優れたり、飛び抜けた功績があったわけでない。言うなればどこにいた普通の自衛官の一人であった。強いて言えば操縦学生から転進した部内幹部出身であったということぐらいであろう。
    昭和の航空自衛隊の全体像を私ごときが語ることなど毛頭考えてもいないし、出来ることではない。
    大組織にあって、一隊員の勤務経験などたかがしれているが、私が歩んだ足跡を基軸に自衛官人生を綴ることはできる。
    その主点は、昭和の航空自衛隊に勤務した当時を回想し、自衛官の勤務経験と生活を軸に、どのように勤務し、どんな問題と取り組み、何を考え、行動したか。どんなことに悩み、立ち向かったかなどを「昭和の航空自衛隊の思い出」として綴っているものです。
 自衛官生活を振り返って、昭和の自衛隊は、すべての隊員に「創造」「挑戦」「前向き」が求められ、その気になればいろいろなことができた時代であった。