昭和の航空自衛隊の思い出(375) 空自主要事業に対する人事処置と部隊の現況把握

1.部隊訪問と空自主要事業に対する先行充足等の人事処置

   平成61年(1966)12月、空幕人事課人事第2班長に補職され、63年(1988)6月末まで務めた。空幕人事課人事第2班は、班長以下8名の陣容で、航空自衛隊全般の准空尉・空曹及び空士約3万7千名の人事に関わる施策、充員・異動・昇任・昇給等の業務を担当した。 

 人事第2班長在任間及び前後における航空自衛隊における主要事業は、次表のとおりで、F-15、É-2c、基地防空、移動警戒隊ㇾ-ダ‐換装、新バッジ、高射部隊ペトリオット、その他に対して、先行して教育・部隊建設など要員の選定・充足を行っていた。限られた人員の中で充足することはいつものことながら苦しい時代であった。

 積極的に関係の部隊訪問を行い、主要事業をはじめとして部隊運営上の人事上の諸問題について現況を把握し、空幕段階で手当てすべきことはないか確認をすることに重点をおいた。

 このため北辺の厳寒下の根室から始まり、経ヶ岬、沖縄、宮古島・沖永良部の離島サイト、熊谷・小松・浜松・小牧・春日・三沢・入間・秋田・硫黄島などの基地を訪問し部隊現況を把握研修するとともに、時間の許す限り集合の機会を設けていただき、精力的に各所で編制単位部隊長等に対し、准空尉・空曹及び空士に関する人事施策の説明及び准尉及び上級空曹に対して、准空尉・空曹及び空士経歴管理基準等について講話をした。

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《 空幕人事第2班長在任間の 空自における主要事業 》 

 

2.部隊訪問による現況の把握 

❶ 経ヶ岬分屯基地・第35警戒群

    昭和62年3月1泊2日の行程で経ヶ岬分屯基地・第35警戒群を研修した。新幹線を利用しての往復であった。かって昭和41年ごろの厳寒期に中部警戒管制団司令の副官当時、団司令の部隊視察に随行し、岳山の頂上にあるオペレ-ション地区と庁舎地区を訪れたことがあった。

    20年の歳月が流れていたが、群司令から状況の説明を受け、幹部全員に対して准曹士人事・経歴管理の運用方針等を説明し、准空尉及び空曹に対しては経歴管理を中心とした具体的な人事管理の方向などを講話した。

 この部隊には、業務隊長中村3佐をはじめとして、3術校人事総務教育担当時の人事幹部学生であつた新進気鋭の東輝明2尉、事務官組の筆頭重鎮の尾瀬司朗事務官が人事総務を担当して活躍していた。

 

経ヶ岬分屯基地の概要  (経ヶ岬分屯基地ホ-ムぺ-ジ出典)

経ヶ岬分屯基地 KYOGAMISAKI SUB BASE

 

基地紹介

経ヶ岬分屯基地の概要

経ヶ岬分屯基地は、京都府の最北端にあたる丹後半島の突端に位置し、山系が海岸線に迫る日本海特有の地形に恵まれ、リアス式の断崖、群青の大海原、白銀の砂浜等風光明媚にして神秘的な清澄たたえた中で、昭和32年以来、幾多の変遷をへて今日のような部隊に至っています。
部隊は、庁舎地区とレーダー地区に分かれ、レーダー地区は庁舎地区から約5.5キロ離れた岳山(標高451m)の頂上に位置しています。
隣接サイトとの密接な連携のもと、日本海正面の空の防人として隊員が昼夜にわたり勤務に励んでいます。
その中の監視業務では、暗い室内の中で、隊員が24時間体制で、レーダースコープの画面に映しだされた航跡を追い続けています。

経ヶ岬分屯基地の沿革        

昭和 17年    旧海軍監視所設置
  23年  6月  米軍レーダー基地開設
  32年 12月  東部訓練航空警戒隊
       第9083部隊展開
  33年 12月  航空自衛隊へ移管
  36年  7月  第35警戒群へ改編
  43年 5月  岳山にレーダー及び運用室移設
平成  4年  4月  庁舎地区へ運用室移設
   6年  4月  基地体育館完成
  12年

 3月

 第35警戒隊に改編
 場外離着陸場開設
       
       
 

 

 

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《 昭和62年3月、第35警戒群主要幹部と 》

 

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《 群司令から部隊の状況説明をいただいた。》

 

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 《 当時の観光パンフレットの一部 》

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《 帰路尾瀬さんの案内で天の橋立に寄った。》

 

❷ 航空救難団秋田救難隊

 昭和62年4月1泊2日の行程で航空救難団に新編された秋田分屯基地・秋田救難隊を研修した。昭和62年 1月29日臨時秋田派遣隊が新設され、同年3月31日には臨時秋田派遣隊が秋田救難隊に改称された。

 出発に当たり、入間基地で航空救難団司令部を訪問し団司令渡邊榮顯将補(防2期)から救難員の選定、教育訓練、処遇及び実任務の実態などの説明を受け、新編部隊をつぶさに研修することになった。秋田救難隊の訪問に当たっては、救難団司令部人事班長小島宏致3官が同行してくれた。 

 

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《 昭和62年4月 往路はYS-11 に搭乗した。  》

 

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 《 新設された庁舎 》

 

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《 昭和62年4月 復路は捜索機MU-2に搭乗した。 》

 

秋田分屯基地の概要    ( 秋田分屯基地ホ-ムぺ-ジ出典)

秋田分屯基地は、東北日本海側の航空救難態勢の充実を図るため、「親基地」である航空自衛隊三沢基地から分かれて置かれる「子基地」の分屯基地として昭和62年に開設されました。
 部隊は秋田救難隊及び三沢気象隊秋田気象班が配置され、主な装備品として捜索機U-125A、救助機UH-60Jの2種類の航空機が配備されています。

 

分屯基地建設風景 

 

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《 当時、基地が建設された雄和町の観光パンフレットの一部 》