昭和の時代、AC&W部隊は、飛行部隊に負けじとワッペン(シンボルマ―ク)を制定していった。昭和61(1986)年11月コントロ-ラ-親睦会機関誌「NEWAGE」に掲載されたものである。
昭和の時代に制定されたシンボル・マ―クは、実に昭和の時代と部隊の状況を如実に反映しているように思われる。「シンボル・マ―クの由来」と合わせてワッペンを眺めると往時の状況が眼に浮かぶようである。
今回及び次回は移動警戒隊の巻とし、数字の若い部隊から紹介することにします。
平成時代を経て、令和の時代の各部隊のシンボル・マ―クは部隊改編等により新しいエンブレムとしても統一されているようである。
【現在の感慨】
❶ 移動警戒隊の隊長と運用幹部は要撃管制官である。峯岡山サイトで要撃管制官としてORとなり自信がついた頃指名されて、単身で20日ほど厚木基地の米海兵隊の移動警戒部隊に連絡幹部として派遣されたことがあった。峯岡山サイトの交代制勤務では米軍の連絡幹部と隣り合わせで勤務したが、逆に一人で米軍の中で任務を果たすのは初めての経験であった。
自衛隊機に対する支援のためであったが、昭和39年当時はまだ空自に移動警戒隊が誕生していない時代であり、米軍の移動警戒隊の機能と役割を研修する機会となった。
当時、米海兵隊将兵の中で航空の幹部自衛官制服姿は珍しかったのか空自の代表みたいな格好となり、基地内どこに行っても歓迎された。規律正しい海兵隊で日本国の2等空尉・国際的な中尉として処遇してもらったことが強く印象に残っている。
❷ 第1、第2の移動警戒隊は、それぞれの移動警戒部隊の先陣の歴史と伝統を有しておりその誇りが強く感じられたことを覚えている。
昭和の時代 第1移動警戒隊 ( 三沢)のシンボル・マ―ク
令和の時代 第1移動警戒隊(千歳)のEmblem 出典 第1移動警戒隊ホ-ムペ-ジ
制定
平成22年3月
意味
○全体の形状
盾型とし、部隊の任務、守りの要であることを示す。
○中心部分の模様
タロットカードにおいては援軍(切り札)を意味
○過去に北警団内に所在していた移動警戒隊の部隊 数を意味し、その伝統を引き継ぐ。
TPS-102を構成するCM、SM,RMという3つのモジュールを自在に操り、いかなる任務にも対応
○「1st」の赤色
移警隊のマスター・スコードロンとしての誇りを表現
第1移動警戒隊の沿革
昭和46年 2月 J/TPS-100第一次実用試験(入間基地)
昭和46年 6月 J/TPS-100第二次実用試験(飯岡)
昭和46年 12月 臨時第1移動警戒隊発足(三沢基地東部地区)
昭和48年 10月 第1移動警戒隊として発足
平成 4年 3月 J/TPS-102システムに換装
平成14年 3月 部隊改編
平成22年 3月 8移警隊統合(母基地千歳)
昭和の時代 第2移動警戒隊 ( 入間)のシンボル・マ―ク
令和の時代 資料なし