5月を迎えた。本日は花協同活動であることからお墓参りを前日に済ませてきた。5月初旬はゴ-ルデンウイ-クの真っただ中で、新緑と周りの花壇の花数も一段増してきた感じである。
今月の浜松市西区神ケ谷町の洞雲寺山門掲示は、「人の両親ほど最も自然にして、最も好適な教育者はいない」、更に「子供は親の言う通りにはしないが、親のする通りにはする」である。
調べてみると、「人の両親ほど最も自然にして、最も好適の教育者はいない」は、ドイツの教育者ヨハン・ベルンハルト・バゼドウの名言とある。
両方の言葉とも納得し、すんなりと心に受け入れられるものがある。人は皆んな子供時代を過ごす。どのような環境にあっても、大抵の人が両親の庇護のもとで育ち、巣立っていくものだ。子供の心は純粋である。善悪、とりわけ「人の道」について家庭生活の中で学んでいくものである。
人の「親」ではなく「両親」というところに隠れた大きな意味がある。「両親」が相和して、助け合って、わが子を「慈しむ」ところに「育てる」以上のものが存在するのではなかろうか。
よく両親の「背中を見て育つ」と言われる。生まれた時から子供は両親のやることをよく見ている。笑と怒り、喜びと悲しみ、喜怒哀楽すべてだ。それらを真似しながら、自分のものとして身につけていくものである。幼児にとって、特に母親の存在は..不可欠のものである。
子供にとって、両親は人の「生き方の鏡」といえよう。こうして考えていくと、大人が人の親、子供の両親になるということは大変な役目を担うことになる。
現代は複雑な社会になってきたが、どんなに時代が変わろうと、昔も今も子供にとって両親の存在・役割・責任はいささかの変化もないであろう。両親と子供の関係は、未来永劫不変のものではなかろうか。
《 浜松市西区神ケ谷町の洞雲寺山門掲示は、「人の両親ほど最も自然にして、最も最適の教育者はいない」、更に「子供は親の言う通りにはしないが、親のする通りにはする」とある。 身に沁みる言葉である。両親と子供の関係、両親の存在・役割・責任が問われている。》