昭和の航空自衛隊の思い出(149) 指揮幕僚課程の学生生活

1.指揮幕僚課程主任以下の布陣

 昭和47年7月幹部学校に第21期指揮幕僚課程学生として入校した。課程主任は、園部昌光1佐が任命され、同補佐に権代良夫1佐、天野行二2佐、江藤光総3佐が指定された。学生長に大井哲夫(防大3期)3佐が任命された。  

 実質的に学生の面倒を見てくれるのが補佐で、学業・研修・体育などはすべてでお世話になった。課程主任とは、私が課程卒業後、西部航空隊司令部における人事幕僚勤務を経て、第6航空団司令部勤務となった折、司令部人事班長として第6航空団司令兼小松基地司令に就任された園部将補にお仕えすることになった。  

2.勉学の環境と通学事情

 学生は、全員が幹部学校付となり所属部隊はなく、実任務から離れた身分になった。1年間現場から離れて勉学に専念することができるよう実に良い制度で、仕事のことで追いかけられることもなく、思う存分課程教育に専念できる状況におかれた。

   東京は市ケ谷台の幹部学校への通学は、市川市の二俣官舎から西船駅を利用することとした。同じ二俣官舎の斎藤芳信3佐(防大4期)とペアを組んで、西船駅付近の駐車場を借りた。一週間交代でお互いの自家用車を使って朝夕通学することにした。学生生活は生活のパタ-ンがほぼ同じであることから何の問題もなく過ごすことができた。

 大方の同期が同じようなやり方をしていたように記憶している。斎藤さんとは馬が合い一年間一緒に行動を共にした。浜松に実家があり、実に温厚で誰からも敬愛された方でその後親しくつき合うことになった。後年、ご子息の斎藤進さんが小平市会議員から静岡8区の新進気鋭の民主党候補として国政に出馬して見事初当選され、防衛問題でも現実的なものの考え方をしており、「元自衛官の息子」として活躍されたが、次回の総選挙では敗退し残念であった。 

3.通勤電車と読書

 昔も今も東京への通勤電車事情は同じではないかと思われる。当時の朝晩の通勤ラッシュはきびしかった。

 市ケ谷台の幹部学校への電車通学は、私服でカバンを持っての定時定点であり、朝の通勤電車にもまれながらであつた。生活の知恵ですぐに要領を覚えて、意外に座れる場所を確保できたものだった。毎日の通学電車の電車状況を分析すると、仮に座れなくても途中で、降りる人は決っており、その前に陣取っていれば顔なじみとなり、暗黙のうちに譲ってくれたものであった。

 斎藤さんとは乗車と下車は同じであったが、車中は状況に応じて各個行動とした。他の同期と同じ行動をしていた。下車後は学校まで徒歩で話をしながら通学したものである。

 電車の中では、その日に読むものをあらかじめ用意して、もっぱら読書に耽ったり、瞑想にふけったりした。

4.最年長グル-プの異色の存在

 部内幹候はどちらかというと、期別的な観念は全くなかった。一緒に起居を共にし上下の関係を保つ幹部候補生生活をしていないため、一般的な先輩、後輩の程度か、期が違う程度の感覚であったように記憶している。

 その上、当時、同期生間でも24歳から36歳未満と10歳以上の開きがあり、部隊経験も相当異なった。こうしたことから各人が「自主独立型」であったように憶えている。

 この点から見ると、防大のように4年間の学生生活で上級生と下級生の上下関係が厳格であることから学生間でも先輩後輩、期別はかなりあるように感じたが、私の立場は、こうした出身期別をかなり超越したものとなった。

 それは幹部自衛官の任官時期は一番古く、部隊勤務年数は一番長く、年齢は年長組であったからだ。一方、階級と昇任年次からは1尉の古参組と来ているから、全員から「濱田さん」、公式な場合は「濵田1尉」と呼ばれることになった。

 要するに毛色の変わった異色のものが一人いたということである。組織にとっては同じ色合い、同族だけではなく、異色が存在することが必要不可欠で活性化・発展性に繋がっていくものだ。このことは今後折に触れて語っていきたい。

 私の場合は、本質は異色であるが全体の中では同色になったりいろいろと変化したりした。色を混合した場合と同じである。1年間の学生生活は実に有意義で私の自衛官生活の中でも最も生き生きとした時期であった。同期生とは分け隔てなくつき合い、すべてにわたって大事にされた。

 

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《 昭和47年9月 前列左から 山口真道3佐・藤原忠晴1尉・濵田喜己1尉

後列左から石川儀一3佐‣斎藤芳信3佐・ 古川和男1尉‣和泉光保3佐 》