昭和の航空自衛隊の思い出(137) 基地業務群人事班長

1.司令を補佐する人事担当

    昭和45年5月人事班長を命ぜられた。当時の入間基地所在の中部航空航空警戒管制団基地業務群本部は、人事班のほか先任幹部のもとに総務班、企画班があった。先任幹部(業務主任)は各隊をまとめていたが、人事業務に関しては群司令と直結して職務を遂行した。

 人事班の業務は、基地業務群全ての隊員の人事に関する人事異動、昇任、昇給、表彰等に関するもののほか個人訓練、隊員の服務規律及び服務指導を担当した。

 航空自衛隊においては、任免等の権限は訓令等で決められており、一般的に空士については団司令、空曹は方面隊司令官、幹部は航空幕僚長、上位階級については長官(大臣)と、補職権、表彰権、懲戒権等様々である。したがって、これら人事に関する諸資料及び報告等文書を作成し団司令部人事班長、担当幹部と調整することが多かった。

2.人事班長の腕の振るいどころ

 群レベルの人事班長の能力発揮や腕を振るう分野と場は群司令に対する人事に関する補佐と隊員の服務規律・服務指導であった。人事幹部がどのように活躍するかの分かれ目は、人事報告・手続き中心の事務にとどまるか、創造・無限の服務指導へ努力を傾注するかにかかっていた。最前線における部隊の人事班長の大きな職務であった。

 部隊運用を経験してきた立場から、人事幹部は「事務屋になるな」「事務中心にならない」と人事幹部課程に進んた時からの考えと信念であった。人事に関する上申等の諸手続きは、迅速的確にするのは当たり前のことであって、服務規律、青年隊員の隊員等の分野に努力を指向した。

 組織の構成員が意欲をもって職務に専念する方策は、どの組織でも永遠の課題であり、定型がなく、無限で難しいものである。服務指導担当幹部の立場から各隊の総括班長・服務指導担当幹部、先任空曹と連携を保って課題に取り組んだ。

 3.内務班に足を運び自主運営のサポ-ト

 航空自衛隊の若手空曹・空士を中心とする営内居住の隊員の資質能力は高いものがある。営内居住者は各隊等別で内務班(営内班といっているところもあった。)を形成していた。若い優秀な青年を一個の立派な人格として尊重し、自主的に運営していく方向で諸施策を取り入れた。

 内務班長会議の司会進行もすべて班長が行うようにし、服務指導担当幹部は、特にアドバイスを要するときのみに手を差し伸べるように切り替えていった。

 いろいろな試行の中で、青年隊員を信頼して任せることが服務意欲の向上につながることを実感した。これは私自身が内務班長であった時、時の上司はすべてを内務班長に任せ、傍からじっと見守る姿勢を貫いていたように覚えている。

 内務班に足を運び内務班で解決できない諸問題の解決に力点を置くことにした。

 4.トイレットぺ-パ-どんとこい補給作戦 

 当時、直面した珍しい事象がある。営内者の水洗トイレのぺ-パ-は営内者がお金を出し合ってトイレ紙を購入していた。誰がケチったか補給数を少なくしたところ、何回補給してもトイレの紙がたちどころになくなっていった。必要な時に必要なぺ-パ-がなければ一大事であるから自衛策が自衛策を生んで、今後自分が使うであろうと思われる分を自分で保有したわけである。

 かって昭和33年代の整備学校当時に経験した便所の「フンづまり」事態が発生した。いったん事象が起きると沈静化するには時間がかかる。当時のトイレットぺ-パ-不足で新聞紙が使われたために起きた事象であった。

 内務指導担当幹部として、トイレの正面に大量にトイレットぺ-パ-を山積みにさせた。減少すればさらにそれを上回るように補給させたところ間もなく正常化した。 

 その後、オイルショックで日本全国中でトイレットぺ-パ-騒動が起きたが、いうなれば類似の事象であった。どんな社会でも必要不可欠なものはすべからく先手を打って自動補給する必要がある。銀行の取り付け騒ぎと同じことが言えた。人間の心理はいずこも同じである。