がんとの闘い(37) 入院雑感

1.お友だち・勲章が外れた

   昨日4月18日朝は点滴針が取り除かれた。晴れて身体には一切の医療機器が付いていない状態となった。
     人間ってあまのじゃくだ。たかだか1本の点滴針でも身体に付いていないだけで、解放された気分になる。普通の状態がいかに良いかを痛感する。
     他の患者も同じように感じているようで、何も付けていない人はスッキリした顔をしている。
    患者の中でも、とりわけ、手術を終えた者は点滴などの医療機器を付けているが、これらは治療にとって必要不可欠の「お友だち」であり、「患者の勲章」のようなものである。
   「 お友だち」がいなくなり、「患者の勲章」が外されると、いよいよ快復の兆しである。
     気力も体力も内なるものが自然に身体に満ち満ちてくる。時を待つというものも必要なことだということがよく分かる。
 
2.お見舞い客一切なし
    今回の入院にあたっては、4回目であり、病気お見舞い一切なしを親戚・知人にお願いした。
    突然の不慮の事故等と異なり、特別なことがない限り、取り敢えず生命の危険はないことから、退院をして再び元気な姿で接したかったからである。
    私の贅沢なわがままと言えるかもしれない。その代わり家内から電話で、状況を説明し安心してもらうようにした。
    お見舞いはありがたいことではあるが、患者の立場になって見ると、病気見舞は、病気の種類、内容、程度、生命の危機度、本人の意思・性格などが絡み合って、微妙で、難しい事柄である。そこには、本人だけてはなく、家族・地縁・血縁、社会的慣行なとも絡んでいる。
    私のように、静かに治療したいと欲する者にとっては、肉親以外は会わず、そっとしておいてもらいたいと思う者もいる。
    私は、かって30数年前、自衛隊の駆け出しの頃に、一番お世話になり、媒酌人にもなって下さった、最も優れた元自衛官・信頼する先輩ががんで逝かれる前、新任地へ赴任の途上、家内と一緒に入院先へお見舞いしたことがある。
    私の脳裏には、往年の雄々しい姿が焼き付いていたけに、あまりにもやせ細り痛々しい姿に驚き涙したことがある。
    もつと違った見舞い方があったのではないかと今でも思うことがある。先輩は私の心の中に今も生きているからである。
    こうしたこともあり、私は何時ものような元気な姿を見てもらいたい、接したい。意気消沈した元気のない姿、苦しんでいる姿、医療機器をいっぱい付けた姿は見せたくないと思っている。             
    これは、私の人生観からくるものかもしれない。出来れば、退院してから、元気な快復した姿で、さらりと病院から帰ったよと話がしたいと思っている。
   その反対の考えの人もいるであろう。どちらが良いとも言えない事柄である。今回も周囲の皆さんに、理解をいただいてありがたく思っている。
    その代わりに、年賀状などでは、知人友人に対して、がんと闘っている状況など近況を認めることにしている。
 
3.手術時の家族待機
    どんな手術でも、家族の待機は必要である。手術にあたっては、同意書の署名と必ず緊急事態時の相談者・対応者を決める。当然のことであろう。
     大きな手術、高度な手術になればなるほど全身麻酔などの処置の元で行われるので、手術結果などが家族の代表に説明が行われる。
   どんな手術であっても家族がいると心強いものがある。現代医療で家族が手助けしなければならない仕事はあまりないように見える。
    最も必要なものは、「そこに家族がいる」ということである。家族の存在は、目に見えない精神的な支柱であるように思う。
    最新の医療をもってしても、人の心の中を満たしてはくれない。それを宗教に求める人もいるであろう。
    私は、やはり家族の存在であるように思う。今年3月に結婚50年・金婚を迎えた連れ添った伴侶こそ最高の存在である。