当時、小学2年生、突然の地震で怯えたが、親父だけは動じることなく、泰然としてテキパキとした対応に安心感を覚えた。
わが家の大黒柱も動いたようでその後、何回か修理が行われたことを覚えている。
どうした訳か余震が収まるまで、夜間海岸の小屋で過ごした。今であれば津波の心配から山へ逃げるであろうが、多く人達が海岸の小屋に集結した。
今だかって、津波がなかったであらう。蚕を飼っていた時期であったので、父だけは家を離れず蚕を守っていたのには子供ながら大したものだと思った。
地震発生後、時間が経つにつれで、火災の発生により一晩中東の空が真っ赤に染まった。
このことが何となく子供ながら不思議に自信がついたような気がしたものである。
「 男は堂々として、やるべき時にやる」という子供の頃の父の無言の教えは私に大きな修練目標を与えてくれた。
家内は益々父親の顔そっくりになつたという。生前、父は帰省した折、只々嬉しそうに笑顔で迎えてくれるだけであった。
2. 大東亜戦争と防衛観
小学4年生の頃、昭和20年7月28日空襲8時、敵機18機大編隊が宇野村上空を通過した。空襲警報が発令されたが、物陰から私が初めて自分の目で見た大編隊であった。爆弾投下もなく悠然と飛行して上空を通り過ぎて行った。
昭和16年12月8日大東亜戦争が始まってから戦況が厳しくなるにつれて、村はずれまで出征兵士を送り出すことが多かった。国防婦人会のタスキが家にあったのを覚えている。
戦争末期には、燃料用として兵隊さんが村の松林で松ヤニを採取したこともあった。
昭和年20年7月28日の山陰地方の空襲について、インターネットで調べてみると、午前8時ごろ鳥取県西伯郡所子村(大山町)の大山口駅列車空爆が記録されている。28日と30日山陰各地で列車が爆撃され、本格的な無差別爆撃が始まったとがある。
戦友の多くがピカドンでいつ瞬にしてやられ亡くなったという。
子供ながら大東亜戦争と戦後を生きたこと、子供の時に体験したことは大きなきっかけとなったのである。
ことあらば、自らの生命はもとより部下の命をも託す任務だけに真剣に生きてきた。誰しもが当たり前のことである。
頭や紙で勝負する事ではなく、評論や第三的立場ではなく、主義・主張のためではなく、観念論ではなく、国を守る自分の使命と一体となった使命観・防衛観・世界観を確立していった。
どの道に進んでも同じである。自分なりの確固たる信念を持って過ごせたことに感謝している。
3. 腸チブスと頭の上がらない人
小学5年の時腸チブスに罹り倉吉の厚生病院に隔離された。その前に連続して夜中高熱でうなされ、うわ言を言うようになった。
医師の診断の結果、法定伝染病として隔離棟に収容されたものである。
現代のように完全看護の時代ではなく、長姉が全部世話をしてくれた。熱い看護の甲斐あって今日私は健在でいられる。
今も94歳の姉には頭が上がらないほど尊敬している。
私には「頭の上がらない人」がいっぱいいる。それは生死をさまよった時の看護の姉、よく面倒を見てくれた兄姉、小学・中学の恩師、自衛隊で自分を指導してくれた上官及び支えてくれた部下、自算会調査事務所で指導してくださった上司、近くは家内など頭の上がらない人が多くいる。
私にとって「頭の上がらない人」か多くいたことが、私の無形の財産であり、誇りでもあった。
私が入院した後、家の内外が消毒されたと後で聞いた。また、自分の記憶では「腸チブス」と聞いている。
それにしても、村中を襲った赤痢は蔓延し、多数の死者を出したものである。一家が一人残して全滅した家もあった。平穏な村に起きた痛ましい出来事であった。
《 故郷鳥取県東伯郡 宇野 》