自動車保険料率算定会の思い出(2)! 大人のよちよち歩きのひよこがたくましく育っていく !

 平成2年4月、航空自衛隊を55歳で定年退官した翌日には、自算会静岡調査事務所に入所することになった。20名ほどの事務所で、所長の下に一般調査課および認定医調査課の二つの課でなりたっていた。
 一般調査課が人員が一番多く文字どおり自賠責にかかわる損害調査を担当しているところである。認定医調課は、専門に後遺障害の認定と医療調査を担当しているところだ。
 所員は、女性の事務職員を除けば、全員男性で銀行、損保、自衛隊、警察、県庁、JR、税関、林野、大蔵等々のOB、役職経験者だけに特色のある人材がそろっていた。浜松からの遠距離通勤は私だけで、他の所員は静岡市か近傍からだった。

 新入所員3名のうち、二人は損保会社の部長経験者、自動車保険のことを全く知らないのは私一人だ。課長は静岡県庁出身のI氏、教育助手は財務事務所出身のU氏、温厚な人柄のUさんは、ずばりと要点を教えて、後はじっと見守るタイプの人であった。新人といえども紳士的な態度でソフトに接し、仕事が終わると赤ちょうちんの行きつけの店に良く誘ってくださった。お二人とも所長になられ、Uさんはすでに鬼籍に入られた。

 自賠責の算定基準、諸規定の習得はもとより交通事故報告書等に基づく現場調査のやり方、調査書類の作り方、警察・検察庁へ訪問など経験を積みながら実務能力の向上を図った。
 当時は、損害額の積算結果はシ−トに記入し、ベテランの女性職員がパソコンに入力する方式であった。最初のころは、入力時に女性の皆さんから基礎的な記入の誤りや積算の誤りを指摘され、恥ずかしい思いをすることが多かった。こうした経験を積むにつれて一人前に育っていった。

 連日、一生懸命努力した甲斐あって、半年後は何とか余裕が生まれるようになった。先輩たちも皆同じように経験して一人前になってきたので、きっとそばで《同じようにミスをしているな》と見て見ぬふりをして、温かく見守ってくれたのではないかと思う。

 ちょうど6ケ月ほどたって、何とか損害調査も一人前になったと思っていたら、次は認定医調課の医療調査に配置され、専門的に医療調査にかかわる勉強がはじまった。教育担当の静岡県庁出身のK氏は、これまた教育熱心な方で医療機関に出かけるときは同行し、訪問医療調査のイロハを教わった。

 書類審査をしながら医療内容や点数の算定に疑問があるものは、アポイントンを取って、医療機関に出向し、主として医師の院長先生に直接お会いして疑問点をおたずねしたり、協力をお願いするだけに医療費の算定についての知識は先生を上回るだけのものを持っていないと軽くあしらわれてしまうから、それは真剣勝負そのもの、Kさんの力量に感服しながら習得に努めた。

 自賠責保険の損害調査は、事故調査による損害額の査定と並行し、医療費が適正に運用されることは大事なことで、請求書に添付されたレセプトをチェックする専門的仕事で、損保協会の医療通信教育の受講に始まって、毎日が勉強の連続であった。

 Kさんは「自分の知っていることは全部伝授するょ」とそれはそれは熱心に教えて下さり、敬服と感謝の毎日であった。もう一人の先輩にもずいぶん教えていただいた。医療調査を1年ばかり担当し、何とか分かりかけたころ浜松調査事務所へ転勤することとなった。 

 静岡においては、新人の役目に毎週金曜日、仕事が終わったらいち早く行きつけの居酒屋に急行し場所の確保をするのが習わしであった。所員の多くが集まって、和気あいあいとわいわいがやがやのひと時であった。
 酒を飲み交わし、多くの先輩たちや女性の皆さんから懇切丁寧に損害調査のなんたるかの夜の授業を受け、教示いただいた懐かしい時代であった。一方、親睦会や旅行の幹事も担当した。
 その時は、6年後に再び古巣の静岡調査事務所に所長として勤務するとは思いもしなかった。人生・運とは不思議なものだ。神のみが知る新しい展開が待っていた。