昭和の航空自衛隊の思い出(456) AC&W部隊のワッペン(シンボル・マ―ク)(11)

     昭和の時代、AC&W部隊は、飛行部隊に負けじとワッペン(シンボルマ―ク)を制定していった。昭和61(1986)年11月コントロ-ラ-親睦会機関誌「NEWAGE」に掲載されたものである。
 昭和の時代に制定されたシンボル・マ―クは、実に昭和の時代と部隊の状況を如実に反映しているように思われる。「シンボル・マ―クの由来」と合わせてワッペンを眺めると往時の状況が眼に浮かぶようである。数字の若い部隊から紹介することにします。
 平成時代を経て、令和の時代の各部隊のシンボル・マ―クは部隊改編等により新しいエンブレムとしても統一されているようである。

 航空自衛隊レ-ダ-サイト】

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《 航空自衛隊AC&W部隊・レ-ダ-サイト、出典ウイキベキァ参照 》

* 平成29年7月 南西航空警戒管制隊は、南西航空警戒管制団となった。
【現在の感慨】
❶ 西部航空警戒管制団のサイトは要撃管制官時代訪れる機会がなかった、CSを卒業し西部航空方面隊司令部の人事幕僚として勤務した折、准尉、空曹及び空士の人事を担当し、西空訓練検閲団の一員として部隊を訪れることになった。
❷ 西部航空警戒管制団のサイトについては、同司令部人事部長時代に所掌の人事、訓練及び厚生業務で全部を何回か訪問した。とりわけ背振山春日基地から日帰りができ要務でしばしば訪問したことから印象に残ったサイトである。また休日には背振山のふもと近くまで家族をつれて車で出かけたことがあった。

 コントロ-ラ―感覚としては、ADDCサイトで西部航空方面隊のかなめのサイトであったことからレ―ダ-と要撃機の図案は印象的でうなずくものがあった。

➌ 峯岡山は、要撃管制幹部課程を卒業し、ADDCでサイトで最初に配置された実戦部隊、しかも首都防衛の最前線のサイトであった。要撃管制訓練に恵まれた環境で日夜訓練に集中し要撃戦技を習得し一人前のコントロ-ラ―に育ててもらったサイトである。

 いわば要撃管制官のふるさと、母隊といった感じで、終生忘れることのないサイトである。24時間の交代制勤務に就き、深夜の勤務交代のたびに山頂から眼下に入る静かな光の街並みと天空の星を眺め「日本を守っている」という実感がしたものだった。

 要撃管制官として作戦運用のORとなった直後、浜松の実家に帰っていた妻は長子を病院で出産したのち産後の肥立ちが悪くあっという間に天国へ旅立ってしまった。わが人生の最大の難関に直面したが、義父母の温かい励ましと協力により、2年後妻をめとり普通の生活に戻っていった。こうした経験から、人にはわからない心の痛みというものがよくわかるようになった。

 妻の突然の急死は、歳も若く思ってもいなかった出来事であったが、苦難を乗り越えて、再びひたすら要撃管制訓練と職務に専心していった。オペレ-ションは手動の時代であり、どこのサイトでも「我こそは日本一のコントロ-ラ―」を目指す天狗、小天狗がおり、要撃戦技で競い合ったものである。要撃機のトップガンと同じであった。

 その後、群本部の運用班長に配置され、本格的に幕僚勤務を経験し、サイト全体の防衛・警備などの運用を担当することとなった。再婚後は休日となると房総の各所を回った思い出がある。

❹ 峯岡山サイト勤務が5年を過ぎたころ、縁あってか、雲の上の存在であった中部航空警戒管制団司令部勤務となり、中部航空警戒管制団司令兼ねて入間基地司令の副官を拝命した。副官在任間は、れいか部隊のサイト視察に随行することがあった。

 ❺ 背振山サイトのワッペン(シンボル・マ―ク)は昭和から令和の時代へと同じデザインであるようだ。峯岡山サイトは昭和と令和では変更となり、中心となる獅子のたてがみなどに鋭さが表れされているように見られる。昭和の制定年が記載されていないため私が昭和40年に着用していた略帽のワッペンと比較してみたが定かでない。制定はその後であろうか。

 昭和の時代  第43警戒群 ( 背振山)  のシンボル・マ―ク

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令和の時代  第43警戒群 ( 背振山)   出典 西部航空警戒管制団ホ-ムペ-ジ

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昭和の時代 第44警戒群(峯岡山)シンボル・マ―ク

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令和の時代  第44警戒隊 ( 峯岡山)    出典 第44警戒隊ホ-ムペ--ジ

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