1. 各種会合への積極的な参加と交流
自衛隊入隊以来、自衛隊関係はもとより同窓会、県人会など各種会合には積極的に参加してきた。このスタンスはどこの基地に勤務しても変わらなかったように思う。
とりわけ、昭和60年(1985)8月東京勤務となって、さらに同窓会、県人会など参加する機会が与えられた。かって入間基地及び府中基地に勤務した折もそうであった。六本木の防衛庁航空幕僚監部・中央勤務は、公私にわたって、積極的に、自衛隊関係者とかといった区分なく、在京の友人達と交流を深めることに努めた。
その根底にあったのは、昭和30年1月陸上自衛隊、同年6月航空自衛隊に入隊してからいつの時代においても自衛隊勤務と自衛官の職務を誇りにしていたことにあった。
昭和の20~30年代に一部の連中から税金泥棒呼ばわりされる時代があったが、世界を見渡してみて、国家の成り立ちは異なっても、すべての国において国家・国民を守る国軍・軍隊は存在しており、必要不可欠なものであるとの考えを堅持しいささかもたじろぐことはなかった。
この考えや信念は、入隊後隊内で特別な教育を受けたりしてそうなったのではなく、厳しい環境で自己の職務を遂行しているうちに形成されたものであった。
また、自衛隊という集団だけではなく、若い時代から機会があれば、積極的に自衛隊以外の社会・集団等における人々との交流を重視し、自己の練磨を図ることが必要であると考えたことにあった。
2. 東京鴨水会(倉吉東高の同窓会)
鳥取県立倉吉東高の同窓会である東京鴨水会が、昭和60年(1985)11月14日、千代田区大手町の竹橋会館で行われた。東京周辺の卒業生の鴨水会であった。
高校同級生の弁護士の鳥飼君が役員をしていた関係で案内状をもらい初めて出席した。NHK国際報道部にいた小学校の親友松村喜一郎君が活躍していた。このときは、高校の大先輩岸田準之助さんの話が印象に残っている。
それ以来、毎年案内状をもらっている。最近はメールが活用され、同窓会のほか、卒業生の著書の出版・個展などの展覧会・コンサートなどの発表会などの情報発信されている。
退官後は、東海鴨水会の案内をもらっているが、高齢になるにつれて、参加できないでいるが、母校のことには常に関心がある。分厚い母校の記念誌や卒業者名簿などはしっかり保存している。母校の近況や生徒の活躍のニュースなどは幾つになっても良いものだ。
3.ニクメンバ―会(2)
昭和60年(1985)12月に次いで、61年(1986)12月、62年(1987)12月、毎年、都内港区南青山「動燃青山」でニクメンバ―会の忘年会が行われ参加した。
昭和29年3月鳥取県立倉吉東高等学校を卒業したが、高校に入学した時は、県立倉吉高校であった。2年のとき、高校の学制改革により、倉吉東高と倉吉西高に分離した。倉吉西高は女生徒が主力であった。多感な少年時代だけに1年間の出会いであっても、当時ことはよく覚えている。
こうしたことから、ニクメンバー会は、昭和29年卒業の倉吉東・西高の合同同級会でもあった。東京在勤間は毎年のこの会に出席するようになった。 参加者のうち自衛官は、私一人であった。
東京及び入間・府中の勤務間において、同窓生との出会いが生まれ、自衛隊生活が一層充実し有意義なものとなった。
2016-09-26 昭和の航空自衛隊の思い出(356) 東京勤務の様々な出会い(2) ニクメンバ―会と第1期操縦学生会
《 昭和61年(1986)12月 、ニクメンバ-会 》
《 昭和62年(1987)12月 、ニクメンバ-会 》