昭和の航空自衛隊の思い出(397)  昭和62年8月研修・硫黄島作戦の戦跡を巡る

1.硫黄島内の研修

    准空尉、空曹及び空士人事を主管する空幕 班長として、「百間は一見にしかず」と硫黄島の勤務環境及び隊員の勤務・生活の実態を把握・理解するため、昭和62(1987)年8月18日~19日、1泊2日の行程で真夏の硫黄島基地隊研修に出かけた。

 研修には充員計画担当の石田敏晴3佐と福田文紀2曹が同行した。移動は入間基地からの定期便を利用した。   

 第1日は主として隊内、第2日は07:50~10:50の3時間で硫黄島内を研修し、硫黄島作戦の戦跡を巡った。

 研修にあたっては、「大東亜戦争叢書」及び「大東亜戦戦争全史」・「硫黄島の作戦」などを読み直した。

 硫黄島の現地において戦跡を巡るとき、大東亜戦争の中でも硫黄島をめぐる日米の熾烈な死闘の攻防戦の実相・様相に思いをはせ、日米の英霊に頭を垂れたものであった。その後、各種の戦争史・作戦・戦闘記録に接するとき、硫黄島における戦跡と重ねあわせたものであった。

 当時、硫黄島研修後において、再びこの地を訪れることはないと思っていただけにまことに強烈な印象が残った。このブログを綴りながら、当時の古びた写真を見ると30年前の情景が浮かぶ。

2.硫黄島の作戦の概要

 服部卓四郎著「大東亜戦戦争全史」(原書房)の「第五章 硫黄島の作戦」の項を抜粋して、硫黄島作戦の経過を見ることにする。簡潔明瞭にして、硫黄島作戦の全貌を知ることができるからである。本書は参謀本部機密文書をもとに、当時作戦課長だった著者が書き綴った戦史である。

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3.硫黄島作戦の経過図及び戦跡を訪ねて

 わずか3時間で主要箇所を研修して回った。当時のアルバムに張り付けられていた写真は見学したものの一部であり、古じみてしまったが何とか収録した。昭和の時代の硫黄島の一部が記録されていたからである。

 硫黄島作戦の経過図及び戦跡等については、硫黄島紹介パンフレット(航空自衛隊監修)及び(海上自衛隊監修)に詳しく紹介されているので参照してください。

 

《  航空自衛隊監修・硫黄島の紹介パンフレットの一部 出典 》

 

《  海上自衛隊監修・硫黄島の紹介パンフレットの一部 出典 》

 

❶.硫黄島警備隊壕

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f:id:y_hamada:20161227110633j:plain《 硫黄島警備隊壕  》

 

❷.栗林兵団司令部壕

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 《 栗林兵団司令部壕 》

 

❸.ロ-ランアンテナ  

f:id:y_hamada:20161227111404j:plain《 ロ-ランアンテナ、 かって米国沿岸警備隊が航空機・船 舶の位置確認のためのロラン局の維持管理のために駐在していた。》 

 

❹.米軍戦勝記念壁画

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 《 米国報道員が写した「摺鉢山」に星条旗を掲げる6人の兵士像」の写真を岩肌に彫刻した壁画 》

 

❺.北観音

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 《 昭和27(1952)年2月10日に、北及南地区で戦死した英霊を供養するため元海軍硫黄島警備隊司令和知恒蔵大佐硫黄島協会会長として米軍と交渉し祭つたものである。心無い米軍人が本国に持ち帰り、現在は当時と違う観音様が祭られている。和知恒蔵元海軍大佐は、戦後初めて僧侶として硫黄島にわたったことで知られており、白骨の島で眠る英霊を鎮めるため遺骨回収に執念を燃やした活動ぶりは、上坂冬子著「硫黄島はいまだ玉砕せず」に詳しく語られている。本書は昭和(1993)年2月文芸春秋から発行され、ノンフィクション作家としての史眼に菊池寛賞を受賞した。》 

 

❻.沈船

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《 手前の船は異様に強烈に印象に残った。写真のはるか前方には、沈船群が点在していた。戦後島の西海岸にコンクリ-ト船を沈めての波止場にして使用した。その後海岸の隆起と砂の体積が激しく使用不能となった。》 

❼.鶯地獄

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《 鶯地獄、昭和46年から陥没が起こり、昭和51年から熱泥水が噴出、昭和53年には爆発を伴い激しく活動した。熱泥水の色が鶯色をしていたところから「鶯地獄」の名がつけられた。》

 

❽.西海岸

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《 摺鉢山を望む 西海岸 》

 

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❾.摺鉢山(最高峰169m) 

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《  摺鉢山は良好な眺望を有し、南海岸、千鳥ヶ原、元山方面、また南硫黄島北硫黄島が遠望できる。 》

 

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《 摺鉢山山頂の硫黄島戦没者顕彰碑、左後方は海軍第一・第二御盾特攻隊慰霊碑 》 

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《  硫黄島戦没者顕彰碑建立の碑文、上坂冬子著「硫黄島はいまだ玉砕せず」の文中では「顕彰碑はの除幕式は、昭和44(1969)年6月27日であった。硫黄島が日本に返還されてちょうどた1年と1日目であった。襖枚分ほどの大きさの黒みかげ石の碑は、各県の名石を持ち寄って集めそれぞれ該当する県に埋めて日本地図かたどり、左上に「硫黄島戦没者顕彰碑」とプレ-トが掲げてある。副碑には「護国の礎石となった、二万万余柱の忠霊の悲願に応え、限りなき敬仰の姿勢を至誠を以て、万世の平和を祈る霊標するために、この山頂に存置された米国海兵隊の記念碑と並べて、本顕彰碑の建立を発願」したとある。 碑文の修正には、終戦の詔勅の草案を作成した陽明学者の安岡正篤が当たったとのことだ。」と記述されている。》

 

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《 摺鉢山山頂の米軍戦勝記念碑、トップに銅板の星条旗、その下に6人の兵が星条旗を掲げたあの有名な写真を銅製のリレ-フにしつらえて掲げ、両脇にvサインを一つづつ並べて、台座にミニッッ大将の名言を刻んだ碑である。昭和43(1968)年6月26日晴れて硫黄島は日本に返還された。このとき問題となったのが、米軍戦勝碑を長く残しておきたいという要望に対して、ときの三木武夫外相は、アレクシス・ジョンソンン駐日大使に対して、「 …合衆国がこの記念碑を長く残したい気持ちは、よく理解されるところであります。この戦場は、わが国の兵士も同様に勇敢に戦った戦場であります。したがって、今回硫黄島の返還を機として、日本の兵士のための記念碑も建て、この二つの記念碑が両国永遠の平和を願い、かつ両国兵士の勇敢と献身を記念とするものとしてこの地に長く残ることを念願するものであります。」と回答している。日本及び日本人の心、和と寛容の国民性ががよく表れている。この辺のところを、1993年発刊の上坂冬子著「硫黄島はいまだ玉砕せず」は文中に詳しく記述している。硫黄島の返還は、領土の返還である。沖縄を含めて一滴の血を流さずして領土が返還された。そこに米国の心を見ることができる。》

 

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 《 摺鉢山の斜面に立ってみた。傾斜面が連なっていた。》

 

❿.南海岸 

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 《 当時の西大佐戦死の碑、航空自衛隊硫黄島パンフレットによると、現在は「西大佐の碑」として新しい碑が建立されているようだ。東海岸のこの場所で、1932年ロスアンゼルスオリンピックの障害馬術で優勝した西大佐(戦車第26連隊長)が最期を遂げられたとされている。》

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《    魚貝慰霊碑、戦前この海域は魚貝が多く採れ島民の生活の糧や主要な漁業となっていたのであろうか。魚貝をいつくしむ心に打たれカメラに収めた。》

 

⓫.40周年記念碑及び鎮魂の丘

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 《 昭和58年9月東京都によって建立された。建立に際してこの台地を「鎮魂の丘」と名付けられた。鎮魂は硫黄島に散華した英霊心安らかななれとの願いが込められている。》

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⓬.資料室

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《 資料室 》

 

4.現在の所感

 わが国にとって、はるか南方約1,200kmの洋上に位置する硫黄島は、時代を超えて、沖縄と同様に地理的・戦略的・地政学的に見ても極めて重要な島であることは自明である。

 軍事知識が多少でもあれば、硫黄島をめぐる日米の攻防戦の経過一つをたどっても、わが国を取り巻く今日の国際情勢、とりわけ領土をめぐる諸問題は軍事外交面から見ただけでも、きわめて冷徹な条理が存在し、いささかも変わっていないことを知ることができる。

5.海上自衛隊硫黄島航空基地の概要

 最後に、何といっても硫黄島における自衛隊基地の管理運営の主役は海上自衛隊硫黄島航空基地隊である。海上自衛隊監修硫黄島紹介パンフレットの一部を紹介する。

 

 《 海上自衛隊監修硫黄島紹介パンフレットから出典 》

 

終わりに 硫黄島に散華した日米の英霊に最敬礼する。