元自衛官の時想( 164) 能登半島地震対処とわが町の防災体制の見直しと改善

 令和6年元日の「令和6年能登半島地震」及び2日の「羽田空港における日航機と海保機との衝突事故」については、最大の関心と心配をしながら対処状況を見守ってきた。

 能登半島地震については、甚大な被災地状況及び死亡者、行方不明者の状況、被災者の避難状況と政府の対処策など新聞、テレビ情報のほか、防衛省警察庁消防庁等ホームページによる公表内容を開いて出動部隊の活動状況を確認してきた。

 特に、防衛省自衛隊の震災当初からの災害派遣活動については、毎日ホームページで確認してきた。統合幕僚監部の出動部隊ごとの具体的な活動などはメディアでは報じられない内容である。

 最近は、録画が加わり被害状況と活動の実相を目の当たりにすることができるようになった。

 現職の昭和時代において、30年代要撃管制幹部として、輪島分屯基地には交差訓練で数日間レーダーサイトを訪れ研修した経験がある。40年代末には人事幕僚として家族帯同して小松基地に2年間勤務した。

 特に、小松基地勤務では、自家用車で家族とともに輪島を訪れ、民宿をして朝市、千枚田輪島港など見物した思い出がいっぱいある。かって自分が見聞した美しく豊かな能登半島が、地震津波によって凄まじく変容した実態に自然の猛威に驚愕した。

 今回の能登半島震災の特性は、今までに経験したことのないものであったが、細長い半島では生起を想定できることであった。報じられる被災状況からして地形がよくわかるだけに自衛隊、警察、消防などの出動部隊の現地への進出、活動や後方からの補給の困難性を目の当たりにした。特殊な地形と災害の状況によって、かなり厳しい対処に直面した出動部隊等の様子が見えるようであった。

 こうしたことから災害発生後は、静かに見守り沈黙してきた。心の中で亡くなられた方のご冥福を祈り、行方不明の方が一日も早く見つかるように、被災された方々が心休まる日が早く訪れるようにと思う日々である。

 地震災害は、日本列島どこでも生起する可能性がある。わが町が震災を受けた場合、どう対処すべきか、過去の幾多の震災の教訓から学び、平素から対処策を講じ、準備と訓練をしておかねばならない。

 わが町では、昨年4月から自治会が令和の「まちづくりの構想」の一環として、三つの「まちづくり委員会」を設けて、テーマごとに委員会が研究討議をして成案を得つつある。その一つに「防災体制の見直し」がある。

 現状の防災体制に甘んじることなく、時代に対応して、常に改善充実していこうとする姿勢が素晴らしい。成案を得て自治会総会で議決したら、町民の生命と財産を守るため、住民の皆さんの意識改革と協力団結、装備資材の備蓄と活用、訓練と改善を繰り返すことが必要でなかろうか。いつの時代も「災害は忘れた頃にやってくる」からだ。     

「令和6年能登半島地震に係る災害派遣について」  

  防衛省統合幕僚監部ホ-ムぺ-ジ出典

❷ 「能登半島地震の主な被害」   中日新聞記事 令和6年1月24日 出典