昭和の航空自衛隊の思い出(207)  小松における関本孝三先生の学級通信・川柳(2)

 昭和50年7月から52年7月までの小松基地在勤間、次男が在校した串小学校の関本孝三先生が編集発行した学級通信は4年「じゃんけん」、5年「いつつぼし」であった。これらは10日に7枚(B4裏表・7号ずつ)で、まとめて一冊となり生活記録集として子供たちに配付されたと記憶している。

 私の手元には、毎週子どもが持ち帰った学級通信の一部が残っていた。40年前のことで変色してはいるが、子供の記録や自衛隊における「〇〇だより」に参考にしようと保存してきたものであろうと思われる。

 後年、西部航空管制団司令部や退官後各種の「〇〇だより」の編集発行をした経験からも、関本先生が授業後一生懸命ガリ版刷りに向かわれた姿が浮かんでくる。誠心を持って努力したものは時代を越えて生き生きとして惹きつけるものがある。

    当時有名になった無着成恭先生の「やまびこ学級」や恩師岸田善吉先生「養心録」に劣らぬものであった。

 関本先生は、子供に題を与えて川柳大会を開いていた。紙面の関係もあるので、川柳のみに絞って一部を綴ってみることにした。すべて子供たちの目線で、子供たちに選ばせたところにも面白さがあった。

 

 1.学級通信(じゃんけん)4年生の川柳 

f:id:y_hamada:20151123232550j:plain

f:id:y_hamada:20151123232737j:plain

《 愚息の一句「授業中あくびをすれば「こら浜田」」、皆どの子も鋭い観察である。》 

 

2.学級通信(いつつぼし)5年生の川柳

     関本先生は5年生になると、クラスの学級通信を「いつつぼし」と名付け熱心に編集発行された。子供には川柳も題が与えられてみんな作品作りに励んだようだ。

 

f:id:y_hamada:20151124100034j:plain

 《 身近な人を取り上げた子供の川柳である。「おとうさんお酒をのめばおどりだす」愚息が私の一面をずばりと描いた一句である。小松基地に勤務して、10か月仕事も軌道に乗っていたであろう。基地へは私有車で制服を着て往復をした。裃を脱いでくつろいだ一家の食事に、いっぱいお神酒が入り、ドジョウ掬い等を披露したのであろうか。これもあれも宴会の時に披露するための予行みたいなもの、一に練習、二に練習、当時「男はつらいよ」が分かったかどうか。》

 

f:id:y_hamada:20151124102930j:plain

f:id:y_hamada:20151124103040j:plain

 《 「授業」と題しての子供の川柳、先生の講評の如く、子供の心がそこにあるから光り輝いている。今は50歳、良きお父さん、お母さんになっているであろう。》

 

f:id:y_hamada:20151124121606j:plain

《 子供の川柳大会の感想を求められたので、感想に添えて一句「川柳が親子とりもちひとつ風呂」と詠んだ。関本先生の魔術にかかったように、その晩所感を書いて翌朝子供に持たせた。どの親も同じであった。それぞれの親の所感も味があった。》

 

f:id:y_hamada:20151124121738j:plain

 《 同じ官舎で同じクラスであったお嬢さんの父親・臼井治夫飛行隊長も一句「川柳を囲んで更ける師走の夜」と詠み所感を寄せておられる。》

  

3.川柳を多用した宴会等

 CS卒業パ-ティにおける教官陣の鋭いユ-モアにあぶれた寸評とプレゼントから発想した宴会時の人物像を中心とた川柳の披露、関本孝二先生の学級通信で取り上げられた子供の川柳などは、私の自衛官生活においてはこの手法を取り入れて川柳調を宴会等の各所で多用することとなった。

 川柳調の寸評は、各人に上司・同僚の立場から見た川柳を作ってもらい、ひそかに選定して、宴会時に「勤務評定」と称して披露したら大いに爆笑で盛り上がったものであった。最後に記念としてさし上げて喜ばれた。自衛隊勤務は厳しい任務であっただけに、心に潤いの場を作り連帯感・絆を保ちたいととした試みであった。

 各地の勤務を重ねるごとに、創意工夫を凝らしていったものである。