昭和の航空自衛隊の思い出(186)  西部航空音楽隊の創設期

1.創設期の音楽要員の人事管理

   昭和48年7月指揮幕僚課程を卒業して最初の赴任先が西部航空方面隊司令部であり、人事部人事班に配置された。准尉・空曹及び空士の人事を担当した。

 その一つに准尉・空曹及び空士の音楽隊員の人事管理があった。西部航空音楽隊のホ-ムぺ-ジによると、「西部航空音楽隊は1963年3月1日、東京オリンピックの前年に西部航空方面隊司令部人事部厚生班音楽隊として航空自衛隊春日基地に誕生しました。その後1976年に西部航空方面隊司令官の直轄部隊として改編され、部隊名も西部航空音楽隊へと変更されました。」とある。

 西部航空音楽隊が正式編制となるまでは、昭和38年(1963年)人事部厚生班に属しており、ちょうど10年目のところにあたる昭和48年(1973年)に担当するところとなった。2年間の勤務を経て、50年7月第6航空団司令部人事班長として転任することとなった。西部航空音楽隊として発足したのが昭和51年(1976年)あったことから、西空直轄部隊として新編する準備段階にあり、人事管理面の諸問題の対処を静かに進めることになった。

 私にとっては、厚生班に属する異質の音楽隊といっても同じ人事部であり、主力を占める准尉・空曹及び空士の担当ということもあって非常に身近な存在であった。音楽隊隊長は新進気鋭の進藤潤1尉で正規の音楽隊へ新生するための諸々の要望に対して人事的にどう対処するかについて調整し合ったものだ。

2.音楽隊員の音楽的才能・資質能力

    音楽隊の役割は、自衛隊の儀式等での演奏、隊員の士気の振作、広報である。自衛隊において広報の重要性が高まるとともに、音楽隊にも演奏の質の高さが求められるようになった。そのために、優秀な演奏員の獲得とたゆまぬ訓練により演奏緯度を向上することが必要となってきたのである。 

 こうした時代背景の中で、西空における音楽隊発足10年を迎えての人事管理上の問題点は、音楽的な資質能力の面で伸び悩む隊員の処遇であった。一般の隊務とは異なり、音楽的な才能・資質能力は訓練すれば一定の演奏技術に達することができても、本来本人が有している音楽的な才能・資質能力は訓練努力だけでは解決し得ないものがあったように認識した。

 音楽的な才能・資質能力は、任期制である空士の段階では特に問題がないが、空曹昇任後は音楽的な才能の壁が顕在化し本人が深刻な諸問題に直面することになり、早い段階で適切な人事上の措置を必要とした。

 当時、こうした問題の解決にあたっては、音楽職域を希望する者がいるときは、進藤隊長が航空教育隊等に出向き、自ら面接して、音楽隊員としての適格性を判断する方策をとりいれて適任者の選定に努めた。

 担当の人事幕僚として、進藤隊長の意見具申に基づき、音楽隊員の中で才能的に将来の進展性に悩んでいる隊員については、早期に他職域への転換を図り、人事上不利にならないよう処置したことが強く印象に残っている。

 そこには、自分自身が、操縦者の道を歩む中途で操縦適性から転進した経験があったこともあり、真剣に人事処置に取り組んだ。その後彼らはどのような隊員生活を歩んだであろうか。

 現在の音楽隊の隊員は、音楽系大学を専攻した人材等が主力となっており、激しい競争を経て音楽才能に恵まれた者で形成されているやに見聞するとき、創設期の音楽隊の育成に人事面で少しかかわったことから今だに関心がある。

 後年、航空幕僚監部人事課で人事2班長(1佐)として、全航空自衛隊の准尉・空曹及び空士の人事管理を担当することとなり、再び長官直轄部隊である航空中央音楽隊と関わることになった。時の航空中央音楽隊長は栄進した 進藤潤2佐であった。人の縁を強く感じる世界でもあった。

3.今日の西部航空音楽隊

西部航空音楽隊について    西部航空音楽隊ホ-ムぺ-ジから出典

私達、西部航空音楽隊は1963年3月1日、東京オリンピックの前年に西部航空方面隊司令部人事部厚生班音楽隊として航空自衛隊春日基地に誕生しました。その後1976年に西部航空方面隊司令官の直轄部隊として改編され、部隊名も西部航空音楽隊へと変更されました。 航空自衛隊が実施する式典や行事、国家的行事等への参加、県及び市町村や公共団体等が主催する各種行事への参加協力を行うなど、それぞれのエリアを代表する音楽隊として多様な演奏活動を行っています。西部航空音楽隊は九州、中国、四国地方を主な活動エリアとしています。