浜ちゃん日記  毎日の生活・活動の根底にあるもの

    給料・報酬をいただく仕事から離れて約10年以上たった。全くの無職で、年金生活者になって久しいが、よく世間でいわれるような「毎日が日曜日」となることはない。それどころか、やや忙しすぎる毎日を過ごしている。 

 そうかといって、苦労しているわけでもなく、特に困っていることもない。どちらかといえば、時間が足りないぐらいである。現役時代との違いは、毎日の生活・活動の根底にあるものが本質的に異なったものであることであろう。それは、対外的な活動のすべてがボランティア活動を主体としたものであることである。 

 大部分が地域社会との関わりであったり、自衛隊OBとしての活動であったりすることが多い。これらは自分の意志で決めたことで、辞めたければやめることができる。その点では精神的・肉体的に追いつめられるようなことはない。自らの意志で参加し活動していることだ。これも間もなくが歳とともに減っていくであろう。

 では、ボランティァを主体とした活動は気楽なものかといえば、必ずしもそうではない。目的を持った組織となると、任意団体といえども責任のある存在となる。約束したこと、皆で決めたことは、実行することが必要であるからだ。

 その点、他との関わりのない個人としての活動は全く誰にはばかることなく生活・活動できることが強みでもある。家庭菜園、家事、趣味など自分一人でできること、やれることは他人との関わりがないので時間に拘束されることもなく、自由に過ごすことができることであろう。

 では、個人の殻に閉じこもっての生活・活動が一番良いかといえばどうであろうか。その辺のところは、その人の物の見方、考え方の違いの出てくるところであろう。

 私は、社会的な活動、ボランティア、家事、個人的な趣味などを織り交ぜて毎日を過ごしている。歳を重ねるにつれてこれらの比重・時間配分など少しずつ変わっていくであろう。今の立場は、どのように毎日を過ごすか、すべて取捨選択の自由が自分にあるということである。こんなありがたい年代はない。このような歳になったことに感謝して日々を過ごしている。

    そして、毎日の生活・活動の根底にあるものは、健康そのものである。人間にとってすべての生活・活動の程度、範囲、質を左右するものは「元気であるかどうか」にかかっている。健康ほどありがたいものはない。歳をとればとるほど「健康は生活・活動の根底を支えるもの」であることを痛切に感じる。

 毎日の生活の中で、「元気で過ごせた」ことに対して、自然に手を合わせ感謝している。「がんとの闘い」の生活であるが、「体が動き、普通に生活できる」ことに感謝している。元気があればいろいろなことができる。身体が普通に動けばあらゆることができる。青年時代・壯年時代に感じなかったことである。

 

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《 KUBOTAのT-5耕運機、10年前花と緑の活動を開始した折に、池谷二三男様から提供されたものです。多少の修理はしたが現在も立派に機能発揮している旧式の老機といえども神原町花の会の一番のはたらきものである。労わりながら使いこなしている。そこにはわが生活と相通じるものがある。》