昭和の航空自衛隊の思い出(52)  トイレが詰まり緊急事態

 1.   創設期のトイレSOSの緊急事態

 昭和32年4月浜松基地に所在する整備学校に学生要員として所属になった。ほどなく学校本部の総務課勤務となった。総務課内務班の副班長・班長をしていたとき、最も強烈に記憶に残っていることは内務班員であった総務課管理班の内野英昭君と竹内一敏君の献身的な働きぶりであった。

 当時、学校内はもとより基地の水洗トイレが至る所で詰まり使用不能になる緊急事態が発生し、ウンチ作戦のまっただ中であった。どちらも階級は空士であったが、昔風にいうと肉弾2勇士のような存在であった。入隊して教育隊を卒業して整備学校にやってきた若者であったが、自ら進んで最も過酷な作業に取り組んでトイレの正常化に奮戦した。

 今風でいうと3K以上で連日現場に出動して、原因の探求と時には手を突っ込んで原因物を排出したりの作業をやり遂げ、ついにトイレのつまりや噴出問題を解決するに至った。写真は内野英昭君と竹内一敏君が表彰された時の記念写真である。

 

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 《 昭和32年10月空士の内野英昭君と竹内一敏君がトイレ緊急対処作戦の功績により学校長から賞詞を授与された時の総務課全員の記念撮影である。栄誉の表彰状を持つ右内野英昭君と左の竹内一敏君で、当時空士が業務功労で表彰を受けたことは、開校以来初めてではなかったかと記憶している。総務課長石原格太郎2佐を囲んで、総務班長牟田善次3佐・人事班長鈴木道明1尉・管理班長佐藤武憲3尉・人事幹部大嶋友増3尉。倉持四郎先任空曹・相良武1曹・田中正治1曹・高津2曹・前田2曹・平井勝2曹・濵田喜己3曹・樋高豊美3曹ほか空士は小原宏樹・内野英昭・竹内一敏・鈴木義勝・行天正光・川名正人・海江田正光・佐藤などの各氏。事務官は森昭信・縣益司郎・松下泰男・松下まち子・西村隆子の各氏であった。》

 

2.   泥んこマンの奮闘と自衛官のあるべき姿を見た

 それにしても、同じ内務班で起居を共にしたが、あれだけのウンコにまみれ臭い作業をやり遂げた内務班員であったが、一度たりといえども弱音や愚痴をこぼしたことはなかった。黙々と与えられた任務をやり遂げる彼らの姿を見て、これこそが本当に有事に役立つ隊員であると思ったものである。

 《ウン》は「運」を生むもので、その秘めたる資質能力は開花し、内野英昭士長は後年、部内出身幹部として2佐へ昇進した。選ばれて幹部候補生学校における部内幹部候補生の区隊長をしたり、部隊及び各級司令部の教育訓練幕僚として大成した。

 私が整備学校総務課に勤務した昭和32年4月ごろは、総務課長石原格太郎2佐(将補・;第11代整備学校長となられた。)が陣頭指揮で采配を振るわれ、直面する諸問題の解決に取り組んでおられた。トイレの糞づまり等の緊急対策処置に当たる管理班長の福岡菊雄2尉(将補で退官された。)次いで佐藤武憲3尉(施設隊司令等を歴任された。)の指揮ぶりや部下の使い方を見て幹部のあるべき姿が心に焼き付いた。

 こうした多彩な出来事の中で、昭和35年2月一般幹部候補生課程(部内)に入校するまでの3年間、総務課で優れた先輩空曹とぴか一の大先任空曹に鍛えられた。

 創設期のこのような空曹時代の職場環境が、私の自衛官人生に有形無形のよい影響を及ぼしたことは間違いなかった。この恵まれた総務課の職場が、後年、部内出身幹部として巣立ち羽ばたくことになった原点であった。

 

3.創設期の浜松基地のトイレ事情

 昭和の30年代はどの家庭でも汲み取り方式の時代であった。今の時代のように水洗トイレが完備し自動的におしりまできれいにしてくれる時代ではなかった。航空自衛隊に入隊して多くの隊員は、初めて水洗トイレなるものを使うものが多かった。したがって、隊員指導も水洗トイレの使い方を教えたりしたものである。 

 全国の基地は水洗化されており、時代の先端をいっていた。特に米軍から引き継いだ基地は完備しておりそのすごさに驚いたものであった。

 昭和30年代初頭の航空自衛隊浜松基地は、整備学校、通信学校の入校学生であふれ満杯状態で、2部授業で整備通信等各種要員を養成中であった。当然に隊舎は3段ベッドがあったりで、水洗トイレは処理能力を上回るほどであった。

 奇しくも第2代松田武整備学校長・浜松基地司令(31.7.16~32.7.28)の回想の中にも「基地司令はその基地に所在する部隊をお世話する訳だが、部隊としては、整備学校、通信学校、教材整備隊、第1航空団など総員で2,000人を越え、寝台は3段寝台、夜中に落ちたら大怪我をするという次第で、なかなか容易ならざるものがあった。更に書くのも一寸気が引けるが、水洗便所が容量を越えてオ-バ-フロ-し、基地外に成熟しない、いきの良いのが流れ出す始末で、これには閉口した。さりとてなるべく流すなともいえないので、ほんとうに往生した。某新聞には新基地司令着任すれども、臭気ぶんぶんと等とやじられた。」とある。

  当時を知る者としては、時の基地司令が本当に苦労されたことがよくわかる。その後、し尿処理施設は完備し、こうした問題は解消されていった。昭和の30年代の初めの物語であるが、航空自衛隊の発展充実とともに周辺整備が行われ、至る所で恩恵を受けていることに気付くことがある。