昭和の航空自衛隊の思い出(20)  新活路を切り開いた度胸と自信

その時何を考え立ち向かったか      

    昭和の航空自衛隊の全体像を私ごときが語ることなど毛頭考えてもいないし、出来ることではない。
    大組織にあって、一隊員の勤務経験などたかがしれているが、私が歩んだ足跡を基軸に自衛官人生を綴ることはできる。
    その主点は昭和の航空自衛隊に勤務した当時を回想し、自衛官の勤務経験と生活を軸に、どのように勤務し、どんな問題と取り組み、何を考え、行動したか。どんなことに悩み、立ち向かったかなどを「昭和の航空自衛隊の思い出」として綴ってみたい。
    「新活路を切り開いた度胸と自信」は、今から25・6年前の航空自衛隊の定年退官(平成2年4月)が近づいたころに記した所感である。所感を読み直してみると感慨新たなるものがある。

 昭和30年6月第1期操縦学生として入隊、大空への夢を描いて操縦学生基本課程を修了し、初級操縦課程へ進んでから操縦免となって挫折と苦悩を経験した。

    当時どんな心境であったのか、どのように活路を切り開いたのかが記されていた。

 これも,私の「タイムカプセル」の「新活路を切り開いた度胸と自信」である。

 

「新活路を切り開いた度胸と自信」

1.天と地ほどの差を感じた

 昭和30年6月2日第1期操縦学生として入隊、大空への夢を描いて操縦学生基本課程を修了し、勇んで初級操縦課程へ進んだ。

    飛行教育の途中で操縦適性面から昭和32年2月多くの仲間とともに操縦学生を免ぜられた。階級は空士長、21歳であった。

 私の新任地は浜松南基地の整備学校であった。浜松北基地にはその後、T-6を終えた同期生が続々とやってきた。T-33ジェット機の訓練のためだ。飛行幹部候補生の記章を着けて意気揚々とした姿を遠くで見るにつけて、自分のみすぼらしさを感じ、気おくれして、あまり顔を合わせたくないと思った。

 同じ志を持って防府南基地に入隊して、わずか2年にして、身分変更により大きく差がついてしまい、自分だけが一人取り残されたようにやるせなさを強く感じた。

2.「負けたくない」秘かな誓い

 黙々と学校総務課で勤務しながら、同期に「負けたくない」「いつの日か追いつきたい」といった気持を深く胸に秘めた。空曹への昇任を果たしたら、いつしか「部内幹部候補生選抜試験」を受けるのは当然のような気持になり、自然に受験勉強をするようになった。

 部内幹候の受験資格は、2曹昇任1年が経過しないと生まれないが、初回で幸い合格することができた。 当時、受験資格者に対して、学校は教育部長・研究部長等の上級幹部が教官となり懇切丁寧に学科・作文など直接接導をいただいた。

3.度胸と自信がついてきた

 昭和35年2月、24歳で奈良の幹部候補生学校に入校し「部内幹部候補生課程」を修学することとなった。時を同じくして第1期の同期生が飛行幹部候補生課程に入校してきて、ようやく同期生と肩を並べることができた。

 今まで抱いていた気おくれもいっぺんに吹き飛んで、厳しい時期を乗り越えたせいか自衛隊勤務にどっしりとした「度胸と自信」が生まれ、態度も安定感ができたのを今も忘れない。

 

幹部候補生記章

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《 昭和35年2月幹部候補生・1等空曹に任命された。当時のアルバム帳に自分が着用していた幹部候補生記章が綴じられていた。54年ほど前の座金は古びたがあらゆる面で度胸と自信を付けてくれた思い出の記章だからであろう。今でも最後に着けた1等空佐の階級章の二つだけは残っていた。下は幹候校で小銃を肩に観閲式に臨む前の写真 》