陸上自衛隊の思い出・「徒然の記」
この記は、昭和54年11月浜松基地にある飛行教育集団司令部人事第1班長(自衛官人事担当)(現航空教育集団司令部)として勤務した、2 佐・44歳の頃、浜松医療センタ-に短期間、検査入院した折に「徒然の記 」として、24年前の昭和30年陸上自衛隊に入隊し教育訓練を受けたころを回想したものである。
*現在から当時を見てどうであったのか所感と説明を【 】に加えることにした。
23. 日給200円
昭和30年1月、入隊当時の2等陸士の日給は200円であつた。月額6,000円である。
俸給日は、現在のように毎月18日であったように記憶している。
隊内では、BXでたまに甘いものを食べる程度でタバコも吸わず、酒も飲まず真面目な青年隊員の一人であった。
外出は主として、米子市の街中や湖畔を同僚と一緒に散歩したり、隊外クラブで食事をしたものだった。
ひとりの外出の時は、米子市の公園の近づいたにある市立図書館で本を読み時間をつぶしたりすることが多かった。
【 ❶入隊当初の生活
昭和29年3月、高校を卒業して、30年1月陸上自衛隊に入隊した。新隊員の前期教育であり、未成年であったから酒は飲まず、タバコは吸わずの生活態度であった。
入隊後は、わが国戦後初の第1期操縦学生の採用試験の受験を控えていたので、図書館に行ったりして準備をしていたのではなかろうか。
社会に出たばかりで、新人自衛官としてはもっぱら教育訓練に励むヒヨコの時代であり、毎日が新しいことを体験する日々であった。
日給200円・月額6000円は、現在の2士の初任給・俸給月額169,500円とほぼ同じてあろうか。
隊内生活で、衣食住に恵まれた環境にあったと言える。初給料を家に送り、その後多少は家に送っていたように記憶している。どちらかというと、農家は全般的に貧しい時代であった。
隊内の生活であり、特別にお金を使うこともなかった。
日本全体が、昭和20年代、30年代前半までは、大部分の人が中学を卒業したら就職し、働いた時代であった。高校に進学出来るのは少数であった。
❷親孝行者が多かった
その後、航空自衛隊で初めて実施部隊等に勤務して、自分が恵まれた環境に育ったことを実感した。
多くの隊員が家に仕送りしていた時代であった。わが整備学校総務課内務班は親孝行者が多かった。
その一人、昭和33年整備学校(現1術校)総務課の内務班員波野邦彦君は、当時、農家には珍しかった高価な新兵器の耕運機を両親に贈ったりした。後年、優秀な気象隊長として活躍した。今でも強く記憶に残っている。
当時の日給200円・月額6,000円は値打ちのある実質日給・月給であったのではなかろうか。】