陸上自衛隊の思い出・「徒然の記」
この記は、昭和54年11月浜松基地にある飛行教育集団司令部人事第1班長(自衛官人事担当)(現航空教育集団司令部)として勤務した、2 佐・44歳の頃、浜松医療センタ-に短期間、検査入院した折に「徒然の記 」として、24年前の昭和30年陸上自衛隊に入隊し教育訓練を受けたころを回想したものである。
*現在から当時を見てどうであったのか所感と説明を【 】に加えることにした。
13. 三八式歩兵銃 / 三八式小銃(38銃)
「 38銃」は、旧日本軍の歩兵の主力銃で明治38年に国産されたものである。基本教練において、ライフル銃が主であったが一部には38銃が配分され執銃教練をした。
敗戦後、日本の軍隊のすべての兵器は進駐軍に接収されたが、破棄処分されず幽霊の如くよみがえったのである。
照星のところの菊のご紋章は削り取られ見る影もなかった。この銃は手入れが割合よく行われて保存されたようで、警察予備隊の創設時に米軍から供与されたものであろう。
38銃は、旧日本軍隊の歴史とともに歩んだといわれており、この銃を名も知れぬ多くの先人たちが用いたのかと感慨無量で忘れられない小銃である。
【 昭和30年1月陸上自衛隊に入隊して、最初に武器なるものを手にしたのはライフル銃と38式小銃であった。俗に「38」といっていた。38銃のいわれについて説明を受けて手にした時、手入れが行き届いてよく保存されてきたこと、照星部の菊のご紋が削り取られているのに驚いた。
大東亜戦争における日本軍の兵器の中で、海の戦艦大和、空の零式艦上戦闘機、陸の三八式歩兵銃は後世においても評価が高い。この38銃に30年式の銃剣を着けた三八式歩兵銃は歴史に残る名銃といわれている。厳寒の営庭で38銃で執銃教練したことから忘れ難い銃である。】
「三八式」では、無残にも「菊花紋章]」の刻印が削り取られていたのが強く印象に残っている。敗戦の一つの象徴であった。写真はウィキペディアによる。