その時何を考え立ち向かったか
自衛隊勤務では良く宴会があった。入隊から退官まですべて身銭を切っての自前の宴会であった。初級幹部の頃の幹部会の宴会ともなれば、前座を務めるのは新品3尉でよく鍛えられた。何としても恥ずかしくない得意な持ち歌を持って、自信をもって堂々としていたかった。後年、カラオケのはやりとともに若い時の鍛錬が大いに役立った。
昭和の30年代は、今のようにカラオケはなく、地声で何も見ないで流行歌や民謡などを歌うとき、よほど練習をしていないと皆から「うまい」と掛け声と拍手喝采をもらうことはできなかった。
これは,私の「タイムカプセル」の所感(原稿)である。
「 トレイドマ-ク「貝殻節」」
貝殻節は、私の郷里鳥取県の代表的な民謡の一つであるが、35年余の自衛隊生活において私の「トレイドマ-ク」となるほど愛唱のわが郷土鳥取県の民謡である。
昭和36年2月幹部に任官し、同年9月要撃管制幹部課程を卒業し最初に着任したところは、房総半島の最南端標高405メ-トルの秀峰嶺岡山に位置するレ-ダ-サイト・第44警戒群であった。
部隊での歓迎会を初めとする宴会では余興が始まると、最初に指名されるのが新任幹部が慣例であった。持ち芸のない新品3尉にとっては、自分がいつ指名され唄わされるかとヒヤヒヤで酒席も落ち着いて鴨川の新鮮な料理を楽しむ心の余裕などなかった。その後、先輩たちの歌・漫才・落語などの芸が披露され感心するとともにこれではいけないと一念発起した。
今のようにカラオケのない当時は、地声ではやり歌など何でもよいから唄わざるを得なかった。そこで入隊以来の生活の知恵で、上司・部下の前でも、どんな宴席に行っても自分なりに自信を持って唄える十八番のものを持たなければ様にならないと痛感した。
思いめぐらした結果、生まれ育った鳥取県の代表的な民謡「貝殻節」こそ、日本海の荒浪で育った私にとって「持ち歌」はこれだと決めた。
民謡を唄うとき、そこで生まれ育ったといえば、同じ歌でもどこか一味違ったものを感じるものだ。泥臭い民謡であればあるほど時代を超えてその土地で風雪に耐えて磨かれた郷土の味を感じる。
このようなことから「貝殻節」の元唄をレコ-ドでしっかりと聴いて覚え、風呂に入ったり、車を運転しているときでも口づさみ一生懸命練習した。歌はどんなに頭で覚えても人様の前で実際に唄う場数を踏まないと、最初の頃は上がっていまい日ごろの練習成果はどこかに飛んでいってしまった。
失敗に失敗を重ね、こんなはずでなかったと幾度か恥をかいたが、次第に自分なりに自信のようなものが生まれ、この頃は自分なりに基本を大事にしながら唄うことにしている。
こうしたことから私の自衛隊生活と「貝殻節」は切っても切れない関係となり、大抵の宴会では、自分の出番がある場合は必ず「貝殻節」を唄うことにした。
私のかっての上司や部下だった人たちは、今でもテレビ等の民謡番組で「貝殻節」が出たときは、私を思い出してくださり、一緒の機会を得た時は、必ずあの「貝殻節」を一度聞きたいといってくださることが多い。多少のお世辞としても私はそれを素直に嬉しく受け止めている。
故郷鳥取県の民謡・「貝殻節」が私の「トレイドマ-ク」のようになったのはありがたいことです。自衛隊生活35年余節を曲げることなく「貝殻節」を自分の持ち歌として通し続けた結果であろうか。
貝殻節
● 民謡「貝殻節」は、鳥取県を代表する民謡で、山陰沖で帆立貝漁をした漁師たちが歌っていた労働唄、その昔、日本海沿岸に大量発生したイタヤ貝を艪漕ぎで捕りに出た漁師達が、辛い労働を慰め、自己を鼓舞して唄ったといわれている。
● NHKドラマ・夢千代日記で、この唄にあわせて芸者たちが度々舞ったことから全国的に知られるようになった。
● 私の生まれ育った鳥取県湯梨浜町宇野の元小学校校庭からも戦後大量の貝殻が掘り出されのを記憶しており、貝殻節を唄う時はその情景と故郷鳥取県の日本海が浮かんだ。
《 グラウンドゴルフ発祥の地 鳥取県湯梨浜町泊 西を臨む 》
《 グラウンドゴルフ発祥の地 鳥取県湯梨浜町泊 東を臨む 》
《 グラウンドゴルフ発祥の地 湯梨浜町泊は生まれ育った宇野から5kmぐらい離れたところの、法事で帰省した折、おりしも全国大会が行われていた。日本海の潮風と太陽を浴びてゴルフができる。》