神原町シニアクラブ( 31)  グラウンドゴルフ・今日はついていた!

1. グラウンドゴルフ

  4月28日午前,浜松市西区神原町シニアクラブ(神原会)の毎週月曜日定例のグラウンドゴルフ部(部長井嶋和彦氏)の練習日である。

    部員は、井嶋和彦、坂本義一、石原武、濵田喜己、小澤初子、今枝三恵子、桑原よし子、八木本幸子、池谷みゆき、野田俊枝、村松英子、石津谷きみ子、池田とし子、井嶋弘子の各氏14名が全員そろった。

 こんなことはなかなかないことである。1~2名は医者通いや用事で抜けることがある。青空の下で健康広場を利用してグラウンドゴルフを通じて、毎週健康管理ができることはありがたいことだ。 

 8ホ-ルを設定し、前段2回の後休憩懇談、後段は1回で終了している。

 

2.人気の理由と魅力

 本会シニアクラブでグラウンドゴルフが人気あるのはなぜであろうか。

❶町内でプレイができる。❷2時間以内で終わる。❸難しいル-ルがない。❹誰でもできる。❺お金がかからない。❻結構歩いて健康につながる。❼町内の情報が入る。❽おしゃべりと笑いがある。 などがあげられる。

 8ホ-ルの設定も、健康広場の地形等に合わせて自由に設定している。得点はつけるが特別に賞を出すわけではないので、記録は交代で行いボケ防止程度にしている。

    賞品はホ-ルインワン(とまり)のみ、ティシュ一箱、何回で出してもティシュ1箱としている。月末は参加賞としてテイシュ1箱を配布する。

 小石も随所にあり、条件は同じで、「すべて運が悪かった」「運がよかった」「ついている」の一語に尽きる。

    こうなると技術もあるが、それよりも「打ってよし、入ってよし、はずれてよし」「常に笑いがあることが最高」とみんな割り切っている。

 特別な理由がない限り、毎週参加するにはそこに何ともいえない「グラウンドゴルフの魅力」があるからであろう。

 今日のホ-ルインワン、小澤初子2回、井嶋弘子2回、石津谷きみ子1回、井嶋和彦1回、濵田喜己2回の成績だった。

 

3.集合

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《 はぁ~イポ-ズで写真を撮った。》

4.休憩

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《 円陣を作って、しばし歓談 》

5.プレイ

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《 毎回2個チ-ムに分かれてプレイ 》

隊友会活動(8) 平成26年度浜松支部総会

1.支部総会

 公益法人隊友会 静岡県隊友会浜松支部の平成26年度総会が、4月27日10:30~11:30、懇親会が12:00~14:00の間、浜松市駅前のプレスタワ-の7階ホ-ル及び17階「21世紀倶楽部」において、約130名が参加して開かれた。

 総会は、自衛隊OB団体らしく、堀内ミサ子氏の司会で、国旗に敬礼、国歌斉唱、物故者に対する黙祷、有田高明支部長挨拶、来賓あいさつは衆議院議員塩谷立氏令夫人、衆議院議員城内実氏、祝電披露、支部顧問内山好夫氏、新理事廣瀬幸信氏、堀内ミサ子氏の新役員の承認・紹介、隊友新聞等の手配り担当者紹介の後、議事に入り有田高明支部長及び副支部長兼会計の佐藤久氏によって事業実施報告・決算報告、本年度事業計画・予算についての議案報告説明と花水浩氏の監査報告が行われ、満場一致で可決終了した。

 懇親会は、会場を変えて盛大に行われた。有田高明支部長の挨拶の後、来賓祝辞として浜松基地司令兼ねて第1航空団司令荒木正嗣空将補は日ごろの隊友会の基地協力支援に感謝の言葉を述べられ、基地・部隊等の任務遂行状況を話された。

 鈴木洋祐静岡県議会議員と竹内良訓静岡県議会議員は支部の特別会員、県議会の有力議員として活躍されており、自衛隊を側面から支援するとの心強い挨拶をされた。

 隊友会相談役・元航空幕僚長石塚勲氏は、安倍内閣における法制の整備、オバマ米国大統領の日本訪問における尖閣をめぐる大統領の発言の意義を説かれ、平時から防衛出動までのグレイゾ-ンの対処をどうするのか防衛法制と体制整備について問題提起をされた。

 来賓紹介、祝電披露、内山好夫氏の音頭による乾杯、隊友山海瀬昭氏の吟詠「富士山」、懇談会食、浜松航空隊歌、廣瀬幸信氏の音頭による万歳三唱をもってお開きとなった。

 

2.特に印象深かった話題

 話の内容の表現は必ずしも正確ではないかもしれないが、私の脳裏に印象に残ったものを私なりにまとめてみた。

〇荒木正嗣基地司令は、かって民放で話題を呼び視聴率が高かった「空飛ぶ広報室」の広報室長役のモデルとなった人であり、OBとして最も関心のある最近の航空自衛隊の話題を中心に、南西地域の対領空侵犯措置状況、空自創立60周年の行事、とりわけ空自発祥の基地1.2術校の学校単位の祝賀行事について述べられた。

〇鈴木洋祐議員は、支部の特別会員であり、浜松市西区選出の議員である。安心できる国の基は国防にありと強調された。自民党静岡県連幹事長として話題の県副知事3人制に少しふれられ意見をこれからまとめるところだ述べられた。県議会の有力議員が支部特別会員であることは力強いものがある。

〇竹内良訓議員は、浜松市中区選出の自民党若手議員であり、支部の特別会員である。県会の国防議員連盟の一員でもあり、国旗の国旗・国歌とりわけ国旗の掲揚について各県によって差があることなど正しい国旗の取り扱いについて強調された。元自衛官は国旗の取り扱いはたいていの者が経験しているが、これほどまでに関心をもっておられることに驚いた。

〇石塚勲元航空幕僚長は、毎回祝辞で我が国の防衛上の問題点を指摘され、隊友の元防衛のプロに対してどう考えるべきか示唆されてきた。今後何が問題となってくるのかを指摘された。

 戦闘機パイロットとして若いころ第一線のアラ-トについていたとき、彼我不明機に対処するに当たって二番機操縦者に対しては事前に「一番機が被害を受けたことを確認してから対処する」ことを毎回徹底しアラ-ト待機ついたことを強調された。

 オバマ米大統領の訪日における尖閣にかかわる大統領の表明の意義を説かれた。

 平時から防衛出動下令までのグレイゾ-ンが存在し、困難な諸問題がある。防衛出動の発令はハ-ドルが極めて高く。それには時間がかかる。対処しないうちに事態は拡大することもある。そのためには法制の整備と体制整備が必要である。平時~防衛出動までのクレイゾ-ンの対処の態勢をいかに整備するかが大きな課題となろう。 

〇 大病を患った山海頼昭氏が飛び入りで「富士山」を吟じた。一時は声も出なくなった時期があったそうだが、これを克服して、しっかりとした音声で多くの隊友を前に堂々と吟じたのには感銘を受けた。何事も前向きに取り組むことが大切であると強く感じた。

 

❶ 整斉とした受付

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 《 よく横の連携をとって受け付けていた。昔取った杵柄・・・ということがあるが、模範的な受付状況であった。》

 

 アイディアに富んだネ-ム・出席者名簿 

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 《 このスタイルを取ったのはかなり古いが、要領よくまとまっており、名札・プログラム・参加者名簿等いくつもの機能を果たしている。》

 

❸ 総会及び懇親会次第f:id:y_hamada:20140427102518j:plain

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《力強い達筆の墨書が会場を引き締める。書道部指導者寺坂光男理事による。すべての表示を一手に引き受けて長年大活躍してきている。今回みんなの前でその旨紹介された。》

 

❹ ゆったりとした総会場 

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 《 総会は、諸報告等総会資料の配付による主要点の簡潔明瞭な報告説明のほかプロゼクタ-で活動状況写真を展示説明した。交通機関等地の利を得た場所で好評である。 》

 

❺ 和やかかつ活気あふれる懇親会  

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  《 話題はさまざま、健康から国際・防衛問題に至りつきることなし。歳はとってもとにかくにぎやかで皆元気がある。》

 

❻ すばらしい展望

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《 プレスタワ-17階からの眺めは格別すばらしい。アクトタワ-有り、太平洋遠州灘につながる浜松中心部が展望できる。》

浜ちゃん日記 自分で決めた生き方

1.自分探しと自分の人生

   昨夜、NHKEテレの「団塊スタイル」で、谷村新司氏が人生の転機について語っていた。私の好きな歌手のひとりなので、 興味深く話を聞いた。

    番組では、55歳の時、妻の一言「もっと他に生き方があるのではないか」が心に響くものがあり、一切の公演を取りやめ、一年仕事を休み、自分探しをし、ついに自分のやりたいことを見つけ、現在は自分が納得した自分のやり方で音楽活動をしていると語っていた。

     自分の生き方をしつかりと持った歌手の歌と語りは人の心を打ち、琴線に触れるものがある。同じ歌詞でも歌が一段と渋く深みを増したように聞こえる。

    若い時は、元気いっぱいそれはそれで良い。誰でも通る道であるから。熟年に達し自分のものを見つけた時が本当の、その人の持ち味が発揮されるようになるものだ。

    自分の生き方・考え方・信念を通しつつも、社会に何らかの形で貢献する生活スタイルは、共感を覚える。

 

2.自分の生活スタイルを貫く

    私は自分の生活スタイルを持ち毎日を過ごしている。それはで人生観であり、信念でもある。

    平成2年自衛隊を定年退職後は,できる限り地域のことに貢献しようと心に決めた。これは私事であっても、社会と結びつく活動をしたいとの思いである。

 航空自衛隊を退官して、休息する暇もなく、翌日から自動車保険料率算定会(自動車’保険料率機構)調査事務所に勤務しながらOB団体の隊友会浜松支部長として、市民と自衛隊との橋渡しの役目を精魂を込めてやり遂げたのもこの考えを一貫して実行したかったからであった。

 その後、現役を卒業し自由の身となってから、地域の 自治会長をやらせていただいた。現在,シニアクラブの会長や花の会の代表となっているのもすべてこの信念・考えから来る生活スタイルである。

     入院中は,治療に専念するが「病気を抱えていても病人になりきらないぞ」と過ごしてきた。文字通り病気は病は気からである。

    24日,25日と二日間花畑に出かけて花壇の手入れ等諸作業をした。この間退院したばかりなのにどうしたのだと,通りすがりの知り合いは声をかけてくれる。意外に元気な姿を見て、入院していたのにと怪訝な顔をする方が多い。

    これが私の生活スタイルである。

    入院しても 手術翌日から食堂に行き,普通に食事をし、出来るだけ動くことに努めてきた。退院当日と翌日の2日間だけは,自宅で神妙にしていたが、次からは町内を散歩したりした。徐々に体力気力を充実させ、特に問題ないと判断して動くことにした。

 花畑で花の手入れをするのは、単に花が好きだからということではなく、花いっぱい活動の成果を確実なものにしたいと思うからである。花活動がまちづくりに少しでも役立つであろうという考えや信念によるものである。

 自分の考えに基づいた生活スタイルで過ごすと楽しいものだ。そこには悔いがない。これからもこの生活スタイルを続けたいと思っている。

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《 夕暮れのポピ-畑、まだまだ背丈が伸びていないのに花が咲きだした。5月20日前後が最盛期で見ごろと予想していたがどうかることか。》

 

* 今朝、なにげなくスマホをつついていたら、ブログが途中の原稿になってしまった。昨夜の書いたブログなので思い出して、何とか整えてみた。

 

 

神原町花の会・花美原会(82) まちなかの花ラインの形成(15)

    浜松市西区神原町花の会(花美原会)の花いっぱい活動の最終目標は、まちなかが花と緑の点と点が結びついて、花ラインをを形成し、街中を歩いて住みよい明るい町と感じる町にしたいということである。

    神原町は、昭和30年に誕生した古くて新しい町である。新築の住宅が多く建ちつつある。

    若い新住民は、自宅の前を塀ではなく、花壇コーナーを設け、マイホームと沿道の双方を華やかに飾ると同時に、新築の家を一層引き立たせている。

    それが、まちなかの点と点の花ラインの形成に一役買っている。 新しい時代の流れであろうか。

    単なる点であっても個々がまちなかを花で飾り明るくして行こうという意識があれば、いつの日か、自然に花ラインが形成され素晴らしいものになるであろう。

  

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 《  道路沿いに花壇コーナーを設け四季折々の花を植栽している。新築の住宅が一層引き立って見える。》

 

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 《  道路沿いのハウスの横に四季折々の花を咲かせる心遣いが素晴らしい。》

 

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《 四さ路の一角に花壇コーナーを設け、四季折々の花を植栽している。

山口歯科医院の優しい心遣いが伝わってくる。》

 

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《   住宅前は全て花壇で飾り、四季折々花を咲かせている。沿道がいつも鮮やかな色でひときわ明るくなっている。西洋風の住宅が一層引き立って見える。》

 

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《  公会堂の一角、何十年も前に植えたものが時期が来ると自然に花が咲いてくる。》

神原町花の会・花美原会(81) まちなかの花ラインの形成(14)

    浜松市西区神原町花の会の花いっぱい活動の最終目標は、わが神原町のまちなかが花の点と点が結びついて花ラインを形成し、花と緑に溢れ、道行く人が住み良い明るいまちと感じられるようになることではなかろうか。

    花まちづくりの原動力は、町民一人一人の心の中にある。

    最近、若い人たちのマイホームは、沿道から見て感じが良い花壇づくりに変わってきているように感じられる。   

    ひと昔前までは、沿道の人々から見えないように自宅を塀・壁でかこみ、りつばな庭に花木を植えて家族だけで楽しむ傾向があった。

    最近の若い人たちは、 自分たちだけではなく、周りの人や道行く人々にも豊かさを感じさせるよう沿道寄りに花壇コーナーを設け,四季折々の花を植栽する傾向があるように感じられる。とても良いことだ。

    こうしたまちなかの美しさと調和する志向は、新築自宅を一層引き立たせている。

   いつの日か 花の点と点 が結びついて,花ラインを形成する日がやってくるであろう。

 

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 《 道路脇に花壇を設け四季折々花を咲かせている。新築自宅が一段と引き立っている。》

 

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 《 畑の道路沿いに花を咲かせる心遣いが伝わってくる。》

 

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《 自宅の前に花壇を 設け,四季折々の花を植栽している。自宅が一層引き立っている。》

 

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 《  畑の道路沿いは1mほどの花壇帯を設け四季折々の花を咲かせている。その心遣いは畑の管理も素晴らしい。》

 

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《  開水路沿いの空き地に帯状にシバザクラなとを咲かせた。人目を引き素晴らしい。》

 

航空自衛隊第1期操縦学生(2)  戦後初の操縦学生試験に挑戦

1.新制度の操縦学生として入隊

 昭和26年4月鳥取県倉吉東高校普通科へ入学、3学年の中途で諸般の事情から進路で悩み、大学進学を断念、方向転換するもうまく行かず29年3月卒業した。    

    卒業後は、親の元で再起を期し、翌年30年1月陸上自衛隊に入隊し、米子駐屯地における新隊員前期教育、続いて福知山駐屯地で後期教育を受けている途中、航空自衛隊第1期操縦学生試験に合格した。

    航空自衛隊入隊するため、陸上自衛隊をわずか5ケ月で退職し、引き続き、昭和30年6月大空の飛躍を目指して山口県防府市にある航空自衛隊幹部学校(のち幹部候補生学校に所属となる。)に入校し、「操縦学生基本課程」を学ぶこととなった。

 

2.操縦学生制度の創設

❶  操縦学生制度創設の経緯、背景 

    操縦学生制度創設に至る経緯については、第1期操縦学生徳田忠成君の「天翔ける群像 第1期操縦学生の軌跡」と海上警備隊から来た第1期操縦学生石井義人君の「大空にかけた青春 航空自衛隊第1機操縦学生の軌跡」に克明に記されているので一部を紹介する。

    また、「日本の防衛(防衛白書)」の防衛年表をめくってみると当時の国際情勢、軍事情勢の大きな流れの中で、日本の防衛力の整備がどのようにして行われたかを知ることができる。 

 なぜ「操縦学生制度」が創設されたかを知るにはまず、敗戦後の当時の日本の国のおかれた状況、三自衛隊、とりわけ航空自衛隊が創設された当時の時代背景を理解する必要があろう。

 

❷  警察予備隊・保安隊・自衛隊 

    昭和16年12月8日大東亜戦争が始り、約3年8ヶ月後、日本はポツダム宣言受託によって、昭和20年8月15日戦争は幕を閉じた。

    日本は無条件降伏、連合軍総司令部(GHQ)の指令により日本陸海軍は解隊され、完全に官民の翼はもぎ取られた。

 日本人の手による一切の航空活動は禁止され、現存する航空機は一部、米軍が実験用に本国へ持ち帰った機体以外は、そのすべてが廃棄処分されたり、かっての関係者が涙ながらに見守る中で、焼却処分にされた。

 その後、6年間というもの、日本人の手による飛行は皆無であったが、昭和25年6月25日に勃発した朝鮮戦争( ~昭和28年7月28日)契機に、連合軍最高司令官マッカ-サ-元帥は、国家警察予備隊7,500人の創設、海上保安庁8,000人増員を許可した。また、「国内の航空運送事業の運営に関する覚書」を日本政府に交付し、待ちに待った航空再開が近づいた。

 これにより同年7月に7万5千名の警察予備隊が編成され陸上自衛隊の基礎が築かれ、約2年後、昭和27年8月海上自衛隊の母体となる海上警備隊が誕生した。

 昭和27年4月1日の平和条約発効、さらには日米安全保障条約の締結とともに、同年10月保安庁が創設、保安隊と改称された。

 同時に、浜松に保安隊航空学校が設立され、米陸軍使用のⅬ-5及びⅬ-19連絡機による飛行訓練が開始された。

 その後、航空自衛隊創設の準備、防衛力整備計画の策定が進む中で、防衛庁設置法及び自衛隊法が成立、施行され保安庁は発展的に解消し、昭和29年7月1日防衛庁が設置された。陸海空3自衛隊が発足した。

 これに先立ち、昭和29年6月1日、保安隊には航空自衛隊創設準備のために宮城県松島基地に臨時松島派遣隊が編成されていたが、防衛庁設立と同時に航空自衛隊に移管され、パイロット基幹要員養成の訓練基地となった。

 航空機配属問題は、保安庁内部で紛糾、三幕が航空機の保有を主張して譲らなかったが、その経済性、対立の懸念、陸・海・空分離の非妥当性が検討課題となった。

 昭和29年7月に航空自衛隊が創設された2ケ月後に、長官指示により「基本的には航空機及び航空機関係諸業務については、航空自衛隊、内局及び付属機関において、統一的に行うことを原則とする」により、航空自衛隊が主任務を担う行うことになった。ただし、例外として、陸上自衛隊は連絡機、ヘリコプタ-の運用、海上自衛隊は対潜哨戒機、ヘリコプタ-運用を認めるものだった。

 

❸ 昭和30年4月当初目標 33飛行隊編成構想

 昭和29年9月に出された「第9次防衛力整備計画」で、ようやく、「航空部隊は実用機718機、練習機420機、計1,138機」と、初めて具体的に明記された。

 これを基礎として、昭和30年4月、航空機1,300機態勢、33飛行部隊編成が、当初の防衛力整備目標となった。

 航空自衛隊の最大の急務は、その中心として任務遂行に当たる航空機1,300機、33飛行隊の編成という防衛力整備構想に伴う、操縦者の養成であった。早速、5ヶ年計画が策定され、この間に、実に2,000名ものパイロット養成が計画された。

 

 戦後初の操縦学生制度の創設

 このような時代背景の中で、昭和30年6月、航空自衛隊操縦学生制度(昭和37年度から「航空空学生」と改称)が創設され、以来、航空自衛隊の中枢となるパイロットの養成が始り、来年で60周年を迎えるに至った。 

 創設当時の33個飛行隊設立は、その後防衛計画の変更により、実に13個飛行隊に激減、「パイロット過剰」の現実と直面した。

 こうした政策変更は、第1期操縦学生をはじめとする創設期の若人が、厳しい操縦適性上の淘汰による進路変更、民間への割愛などへとつながっていったが、時代は優秀な人材を求めており、創設期の航空自衛隊の建設、民間航空の基盤発展に多大な貢献をすることとなった。

 航空自衛隊の創設期は、いろいろな面で未整備な面があり、操縦学生も防衛政策の変更に翻弄された面もあるが、いつの時代も新しいことを始めたときはどの分野でも同じことが生じるものである。今や時代は移り変わり航空学生制度も長い歴史と伝統が培われ、航空・海上としっかりとした充実した制度となり発展している。 

 普通であれば、4月1日の採用入隊であろうが、第1期操縦学生は6月2日と中途半端になったのは、「操縦学生及び操縦幹部候補生の任用教育等に関する訓令」が、昭和30年7月14日付であることからも諸般の事情があったことが伺われる。

 

❺ 優秀な人材の集結と各方面での活躍 

 それにしても、創設期の操縦学生の応募人員は、第1期生と9月1日入隊予定の第2期生が同時に受験し、約7,000名となった。採用通知後の辞退者、着隊後の身体検査の不合格等で第1期生207名、第2期生48名が入隊した。前者が34倍、後者が27倍の競争率であった。

 いずれにしても一騎当千の強者が集まり、鍛えに鍛えて、その後、航空自衛隊はもとより民間においてもその能力をいかんなく発揮した。

 その一つが、ブル-インパルスの活躍である。昭和39年10月10日、東京オリンピック開催日初日、メインスタジアムの代々木国立公園上空の澄み切った青空に、見事な五輪のマ-クは日本の歴史上の快挙として語り継がれている。 

 その五輪を描いたブル-インパルスのパイロットは、5機のうち3機が第1期操縦学生出身であり、当時2尉だった2番機・淡野徹君、3番機・西村克重君、単独機・藤縄忠君の3名であった。彼らは実に操縦者として資質能力はもとより人格識見に優れた人材であった。今もってよくテレビに登場する。

 その後3名は日本航空に入社し、ジャンボ機長として大活躍した。また、ブル-インパルスの在任期間の長かった村田博生君は、飛行部隊指揮官、上級司令部運用幕僚で大活躍し、退官後は航空ファンの知る人ぞ知る航空専門家として活躍し、「ファイタ-パイロット」の著者でもある。 

 

2.操縦学生採用試験の募集 

   私が戦後初の「 操縦学生」募集を知ったのはいつだったのか記憶が定かではない。

    高校3年の中途で大学進学を断念、進路変更して卒業し、親の元で再起を期している折、操縦学生採用試験募集を知ったのではないかと思われる。

     昭和30年1月末、陸上自衛隊新隊員入隊時、唯一の持参品はトランク1個で、その中に高校の参考書だけを入れていたことを鮮明に覚えている。

    操縦学生試験の受験勉強をするためであったことは確かである。この点から陸上自衛隊へ入隊前の昭和29年秋〜冬ごろであったのではないかと思われる。

    徳田君の著書によると

    航空学生制度の目的は、将来における新進気鋭の航空自衛隊パイロットの養成のため、高等学校卒業者の中から、心身ともに優秀かつ適任者の選抜ということで、最初は100名の募集予定であった。

    募集日程は、次のとおりであった。

昭和30年3月1日     第一次試験

昭和30年3月23日〜26日第二次試験

昭和30年5月17日   採用通知

昭和30年5月下旬     入隊

    応募資格の要点は、日本国籍を有する男子で昭和30年4月1日現在、年齢満20歳未満満18歳以上、ただし、自衛官から志願する者は、満2Ⅰ歳未満の高校卒業者または卒業見込みの者となっていた。

      反自衛隊感情が強い時代であったから、この募集書類が、全国の高校宛に送付されたとき、日教組から文句が来たという。と記されている。

 

3.操縦学生試験志願の理由

    昭和29年7月発足した航空自衛隊において、戦後初のパイロットを養成する「操縦学生」の募集が行われることを知り、所定のパイロットの教育訓練の後、幹部になれるとのことであった。

    それがいかに厳しいものであるか知る良しもなかったが 「これだ」と思った。

    子供の頃から運動能力は人並み以上と自認していた。小学校、中学校生活では体格も良く運動は得意な方であった。

    これなら大空へ飛躍が出来そうだと思い、操縦学生試験に挑戦してみようと決心した。誰かに勧められたりではなく自分で進路を選んだ。

    もう一つは、戦後初めての新人パイロットを養成する制度かできたことに大きな魅力を感じたことであった。

     これは操縦学生課程に入って分かったことであるが、パイロットになりたいと大学に入学したばかりなのに退学、休学してきたものが多かったことである。

   また、日本が大東亜戦争に負け全ての翼を奪われていたが、航空自衛隊はもとより民間航空の揺籃の時期にあったことである。新しい時代が到来し、優秀な若者を求めていたことが背景にあった。

     これにより創設期の航空自衛隊の飛行隊及び民間航空の基盤作りに貢献することになった。

 

4. 操縦学生採用試験

    早速、採用試験(1次・筆記試験を受け、さらに2次・口述面接試験・身体検査・適性検査)を受験することになった。

     1次試験は、受験地は米子駐屯地内で行われた。多分100名前後の受験生がいたような気がする。入隊訓練中であったので制服姿で受験したが、制服の受験者もかなりいた。   筆記試験は、5答択一で5時間、社会・国語(甲)・数学(解析Ⅰ・Ⅱ)・理科(物理・化学)・英語の5科目であった。

 

5.第2次試験と結果

    操縦学生1次試験 に合格し、2次試験は中部方面総監部の所在する伊丹駐屯地で受験した。試験内容は、身体検査(一般、精密検査)、面接、適性検査(筆記式)であった。

    米子駐屯地から同じ新隊員であった同年代の田中君と一緒に受験した。

    米子から福知山山陰本線の往復の車中でいろいろと夢を語り合ったものである。

    残念ながら彼は合格しなかったが、向学心に燃えており、その後、厳しい訓練演習を乗り越えて大学の通信教育を卒業した。その後どんな人生を歩んだであろうか。人生は様々であることを学び励された。

 

6.退職と新たなる旅立ち

    昭和30年6月1日付で陸上自衛隊を退職し、翌6月2日付で航空自衛隊に入隊した。

    入隊にあたっては、山陽本線三田尻駅(防府駅)に降り立ち、学校から案内された防府天満宮近くの旅館に宿泊した。

     旅館では、全国から集まった同期となる若者が多数おり賑やかであった。これから一緒に同期の桜となるかと胸が高鳴った。

   翌日朝、自衛隊の車両で防府南基地へ向かい、営門をくぐった。新しい希望に満ちた厳しい人生の始まりであった。

入隊式・入校式は、6月3日午前10時に挙行された。

 

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《 昭和30年6月3日 満19歳、「6月2日付で航空学生2等空士」に任命された。多分、基地内の写真屋さんで撮影したであろうか。アルバムをめくってみると、両親にこの写真を同封して「入校式の日に故郷の両親に第1信を送る」とある。無事に入校式を終えたことを報告したのであろう。当時、今は亡き両親は末っ子の私の姿を見てきっと安堵したことであろう。いつの時代も親が子供に寄せる愛は変わらない。》

 

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《 昭和30年6月3日午前10から島田航一幹部学校長の元、厳粛な入校式が挙行された。ネクタイ、白手袋を着用しで整列、代表が「服務の宣誓」をしたであろう。式典後、基地内で同期生に撮ってもらったスナップ写真であろうか。同期生は第一期生らしく、のびのびとしてやんちゃで元気がよかった。後年、実に逸材ぞろいの強者の集団となっていった。》

神原町花の会・花美原会(80) ポピーの成長ぶり

1.帰ってきたよ   

   昨日、4月21日は、一日中雨が降り続いた。午前病院を退院し、車で家に帰る途中、入院間気になっていた浜松市西区神原町花の会(花美原会)の管理する「花いっぱい区域(花畑)」を車窓から眺め、花畑に向かって「帰ってきたよ」と挨拶した。

 

2.しばらく見ぬまに成長

     今日,4月22日朝は快晴であったが、次第に曇ってきた。入院11日間花畑から離れていたら、本命のポピ-畑は全般的にまだまだ背丈が低く、成長がイマイチであるが、中には成長の良いものはまちきれずに花が咲くものがある。

    目標は5月中旬に満開となることを期待しています。最近は降雨もあり、順調に推移すれば予想通りが期待できるかもしれない。

 

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《 沿道から見たポピ-畑 》

 

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《 まだまだこれから成長するポピ-畑であるが、早いものは、ちらほら花が咲きだした。》

 

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《 鮮やかに咲いたポピ- 》

 

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《 つぼみが半分開いたポピ- 》