昭和の航空自衛隊の思い出(395)  昭和62年展開初期の硫黄島及び硫黄島基地隊(2)

⒈  硫黄島及び硫黄島基地隊研修 

    航空自衛隊全般の准尉、空曹及び空士人事を主管する班長として、硫黄島基地隊の勤務状況及び硫黄島の環境等を把握するため、昭和62(1987)年8月18日~19日、1泊2日の行程で真夏の硫黄島研修をした。研修には充員計画担当の石田敏晴3佐と福田文紀2曹が同行した。移動は入間基地からの定期便を利用した。

   入間基地をc-1で飛び立ち1,200キロ以上離れた硫黄島の上空に達した。上空からしっかりと見つめ、ここがさきの大東亜戦争において、昭和20(1945)年2月16日から3日間、小笠原兵団長栗林陸軍中将以下の将兵が壮絶な攻防戦をした日米戦史に刻まれた硫黄島かと凝視したものであった。

    当時、海上自衛隊航空自衛隊基地関係者以外の民間人の全島への立ち入りが制限されていた。旧島民らの慰霊などのための上陸は例外として許されていた。展開初期の段階は、今日のように当時は部隊単位の移動訓練は緒に就いたばかりであり、航空自衛官も特別な関係者以外訪れることが少なかったように記憶している。

硫黄島に降り立つや、硫黄島基地隊の計画に従って行動した。

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 早速、隊司令に挨拶し、司令・先任幹部と懇談・会食してから海上自衛隊硫黄島航空基地隊司令を表敬訪問した。昭和46(1971)年6月小笠原諸島本土復帰と同時に海上自衛隊硫黄島航空基地分遣隊が新偏されてから約15年後に航空自衛隊硫黄島基地隊が新編されたわけで、兄貴分の部隊指揮官に敬意を表し、日ごろの御礼と海自の状況をうかがうことができた。

 海自の庁舎等は充実していたが、空自は展開して間もないことからすべてにわたって整備中であったように記憶している。 

2.日本戦没者将兵慰霊碑(天山慰霊碑)へ参拝

 部隊の状況説明などを受ける前に、まず最初に日本戦没者将兵慰霊碑(天山慰霊碑)へ参拝した。入間を飛び立つときから献花を用意して携行し、制服に身を正し献花をし、戦没者将兵の英霊に対して謹んで感謝と安らかならんことをお祈りした、とき代わり、わが国の平和・独立と安全を守るために硫黄島に駐屯している海上航空自衛隊の部隊及び隊員にご加護をたまらんことを祈願した。 

❶ 日本戦没者将兵慰霊碑(天山慰霊碑)

    天山慰霊碑は、昭和46年3月26日、厚生省が日本軍戦没将兵の慰霊碑として建立したものである。 海軍北地区の指揮所であり、最後の拠点として組織的戦闘が行われた天山壕の上に造られており、天山慰霊碑とも呼ばれている。また、慰霊碑の側に納骨堂が昭和60年に建 立された。新たに発見されたご遺骨は本土の千鳥ヶ淵に納められるまで、一時的にここに安置される。

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《  慰霊碑は、硫黄島で戦死・玉砕した21,900人の将兵を追悼するため昭和46年に建立された。慰霊碑の天井は、日の光と雨水の恵みを、 英霊がいつでも受けられるよう、穴が空いているが強烈に印象に残った。塹壕戦だったため、暗い地下壕の中で太陽に憧れ、飲料水として雨水を求めた兵士の心境を鑑みて石碑上部を覆う長方形の上屋には天窓が設けられたものである。翌日全島の地下壕(12km)の主要な一部に入って壮絶な状況に思いを致したものである。》

❷ 日本戦没者将兵慰霊碑(天山慰霊碑)碑文 

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《   戦没者の碑 建立の碑文は、「さきの大戦において 硫黄島で戦没した2万余の将兵をしのび  その霊を慰めるため 国民の哀悼の思いをこめてこの碑を建立する 昭和46年3月 厚生省」とある。》 

 

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 《   戦没者の碑 建立の碑文 》

❸ 日本戦没者将兵慰霊碑(天山慰霊碑)参拝後の写真 

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 《 昭和62年8月18日 日本戦没者将兵慰霊碑(天山慰霊碑)へ硫黄島基地隊先任幹部に案内していただき参拝した。》

注:古びたアルバムは、30年以上の歳月を経て写真全体が鮮明でないものもあるが、く、同写真を再度カメラで取り直したものである。