昔の家には、誰にでも分かる大黒柱があった。私が生まれ育った家も黒々と底光した檜のしっかりした大黒柱があった。家をしっかりと支え不動のものとした。
自分の自衛隊勤務を振り返って見て、心の大黒柱となったものは何であったのかを考えた時、「第1期操縦学生の誇りと闘志」「部内幹候出身者・CSに学んだ誇りと気概」「新しいことに挑戦する勇気と気概」「後継者を育成する使命と気概」の四つをあげることが出来る。
1.第1期操縦学生の誇りと闘志
第1に「第1期操縦学生」であったという「誇りと闘志」であった。
昭和30年6月2日航空自衛隊に入隊し第1期操縦学生として大空への夢を志したが、初級操縦訓練の単独飛行(ソロ)直前おいて操縦免(エリミネート)となった。
夢と希望に満ちた若い時代だっただけに、人生初の挫折は大きいかつた。直ぐに立ち直ったように見えたが、しばらくは、日夜飛行訓練に励んで成長していく同期生・飛行幹部候補生として大きな夢を着実に実現しつつある姿を見ると心が揺さぶられた。幾たびかの心の葛藤を乗り越えているうちに、いつの日か必ず、別の分野で追いつき、追い越したいという内に秘めた強固にして強烈な決意と闘志が生まれた。
そして、新しい道を進むと決めたからには、脇見をせず、焦らないで、じっくり腰を落ち着けてひたすら一歩一歩前進していくよう自分を励ました。
「時が解決する」とはまさしく至言である。新任地の浜松の整備学校総務課で仕事に励んでいるうちに、新しい世界が開け、激しい心の葛藤、挫折感もいつしか消えて行った。この厳しい試練が、逆にその後の私の自衛官人生にどんなことがあっても、どん底から這い上がれる精神的な強靭さと逞しさを与えてくれた。
このことにより、第23期部内幹部選抜試験に合格し、昭和35年1月、24歳にして幹部候補生学校に入校できた。期せずしてほぼ一緒の頃に、パイロットコースを進んだ1期生の同期と課程は異なるが幹候校で学ぶことになった。
「操縦学生」の身分は失ったが、「第1期操縦学生」だった「内なる誇りと闘志」と「挫折・試練を乗り越えた自信」が導いてくれたのではなかろうか。
最初の任地である航空自衛隊のメッカである浜松の整備学校(現第1術科学校)、ここには私の自衛官人生を方向づける新しい世界、勤務が待つていた。
2. 部内幹候出身者・CSで学んだ誇りと気概
幹部自衛官の人事上の区分は、出身によって、防衛大学(防大)、一般大学(一般・部外)、航空学生(航学)、部内幹候(部内)、3尉候補者(3候・特幹)の5つに大きく分けられる。それぞれ人事上の取扱いと経歴管理が行われていた。
自衛隊の幹部自衛官は、自衛隊の骨幹をなす幹部自衛官の養成機関である防衛大学出身者とその他の出身者で成り立っている。
航空自衛隊の60年の歴史の中で、幹部自衛官の出身区分と養成数はほぼ安定した体制が確立されてきた。組織は同色・同族だけだと衰退する可能性を秘めていることは古今東西、すべてにおいて共通する哲理であろう。その観点からも非常にバランスのとれた良い人事制度であると思う。
私は、部内幹候出身として管理された。一般隊員の中から選抜して幹部に登用する制度であり、任官当時は上級司令部の幕僚となることは夢のまた夢であったが、時代とともに門戸が開かれた人事が行われるようになった。
諸外国の軍隊と同様に自衛隊において、国家が特別に設けた幹部養成機関である防衛大学卒業者を優先して処遇することは当然のことと受け止めていた。
部内出身者の昇進は、一般的には、列車に例えれば「特急」「急行」に対して「普通」俗にいう「鈍行」といわれていた。3尉から1尉までは「特急・急行」は概ね一斉昇任に対して「鈍行」は遅れた。昇任の経過年数からすると、後発の特急、急行に追い越されていった。
こうしたことから1尉に昇任して2年後、指揮幕僚課程(CS)選抜試験の受験資格ができたが年齢制限(38歳未満)から1回だけの資格が生まれたので挑戦した。
過去に部内出身者が合格したのは4名ほどであり、周囲の誰も期待はしていなかったが、現場で取り組んだ課題を実現するにはCSを出ること、しかるべきポストに就くことだと思い受験した。
幸い幹部学校において、第21期指揮幕僚課程で40名の中の最年長、部内出身の異色として1年間学ぶことができた。課程修了後は、各級司令部の幕僚勤務を通じて、長年温めてきた課題に取り組む機会が与えられた。また、CS修了者ということでそれなりの処遇を受けた。
一方、数少ない部内出身のCS修了者として、「部内幹部の代表者」としての役割が期待された。一層心を引き締めて事に当たったが仕事が非常にやりやすくなった。何よりも上下から信頼され、やるべきことをやることができたという充実感と満足感を持って定年退官した。
3.新しいことに挑戦する勇気と気概
第3は、自衛隊勤務の出発から終点まで、終始「新しいことに挑戦する勇気と気概」である。このことは、昭和という時代と航空自衛隊の創設建設期にあって、新しいことに取り組む積極進取が求められていた。また、自分の性格がそうさせた面もあったようだ。
ひよこの時代は、常に新しい業務を命ぜられ挑戦する勇気を与えられた。少しづつ実力がつくと自ら課題を決めて挑戦するようになった。人事管理、服務指導、内務班の自主運営など幕僚勤務を通じて実現を試みた。
後年、CS卒業後は、上司の特別の指導のもと存分に腕を振るう機会を与えてもらった。一般業務を処理する傍らいろいろな場面で、特命の新しい課題の研究や業務処理をやらせてもらった。
いつしかこうした経験が、新しいことに取り組むことに、度胸が据わり諸事万端に前向きとなっていった。幸せな時代を過ごすことができた。
若き青春 大空を目指して
《 第1操縦学校(山口県小月)にて初級操縦訓練に励んだ。当時の冬期の飛行服、古びたアルバムには、「強健な体力、旺盛な気力、卓抜な技量を目指し、心身の練磨に励んだ有意義な青春時代である」と記している。21歳の顔 》
《 T-34メンタ-に搭乗し、計器の点検終わり飛行準備完了、当時のアルバムに「Cockpitに入った。めぐまるしく計器を点検しながら、Relax.Relax!と心臓を静めながら飛行前のひと時を過ごす」と記している。 )
《 飛行訓練を終えて、T-34メンタ-で 》
《 21CS、同期生は空自の主要ポストにつき活躍した。また、多くの将官が生まれた。当時37歳~38歳 》
( 続く )