昨年の台風24号で神原町花の会(花美原会)の看板が壊れてしまった。12年前に故窪田萬年さんが精魂を込めて手作りしてくださった看板であった。神原町花いっぱい区域に建てた二つの看板のうち正面入り口の看板が老朽化と強風のため修復不能となったため新たに建設したものである。
相佐末吉会長の指導の下、初代の看板の趣旨を生かし、がっちりした新装の看板「花を咲かそう神原に」がお目見えした。1月においては、花壇枠取りの竹材交換が行われた。明日はポピ-畑の草取りを主体としてた協同活動が行われる。
厳しい寒さの中にも春の訪れの息吹を感じる。この頃は毎日午後5時から約1時間自宅周辺を中心としたウオ-キングを行っている。体重がなかなか落ちていかないが、昨年末の74キロを超えたところから、ようやく72キロ弱に抑えることができるようになった。交通事故にあわないように注意しながらのウオ-キングである。
いろいろと地域の様子を確認することができるので楽しみながら歩いている。夕闇迫る大型ビ二-ルハウス群の合間から沈む夕陽を眺めることができる。刻々と変化していく天空の眺めはおもしろいものだ。
時折、浜名湖ガーデンパークを散策する。風光明媚な浜名湖にある浜名湖ガーデンパークは、静岡県浜松市西区村櫛町にあり、静岡県営の大規模公園である。自宅から車で20分もあれば行ける。随時、各種のイベントが行われているが、イベントがない日は静かである。
ここを訪れるのは、主としてウオーキングと写真撮影であるが、広大な敷地を歩くには好適地で、これほどの自然環境に恵まれた場所はもったいないほどである。グランド地域ではグラウンドゴルフのコ-スがあり、高齢者の一団が盛んにプレイに励んでいるのが眺められた。
公園内を走る運河には、鳥が泳いでおり、太陽が湖面に反射自然、時折一陣の風が噴き上げると次ぎ次ぎに風紋ができ、その風景は何とも言えないほど自然の絶景でしばし足を止めることになる。
(パソコン不調につき、写真は後ほど添付)
歳をとったら「足からくる」とはよく言ったものだ。歳を重ねるごとに次第に下肢が弱り動けなくなるからだ。杖をついて歩けるうちはまだ良いが、多くの方は諦めて歩くことを止めてしまう。歩かないでじっとしているとさらに体の機能が低下してくることになる。それに付随して心が弱くなってくる。
最大の問題は、心が弱くなり、甘えの心が生まれてくることではなかろうか。人の心は強そうで弱いものだ。楽な方に傾くようになる。甘え出したらきりがなく、低下の一途をたどることになる。
健康寿命は、歩く機能を維持する、甘えの心をなくすることによって少しでも長く保つことができるのではなかろうか。 歩けなくなる時期をいかに遅くするかはその人の考え方、生き方によって決まったてくる。
シニアクラブでも、先輩たちは、格好より乳母車を引いてでも活動の場である神原会館にやってきた人は最後まで元気に暮らしさよなら往生された。それに対して、歳だから下肢が弱ったから会館に出かけるのは止めたと自認した人は早くから高齢者介護施設に入っていく事例が多いように見受ける。
これからのことは全く分からないが、80路を進むようになってからの人生は、いかに自分の足でしっかりと歩く機能を維持するかの「自己との戦い」でもあるように感じている。
下肢が弱ってくれば、じつとしておれば楽である。家人に全てを手助けしてもらえたら楽であるが、これに甘んじていたら際限がなくなる。この「甘えの心」をどれだけコントロールできるか今後の課題となってくるであろう。家族愛という錦の御旗で、周囲もついついそれを許したり、認めてしまうようになるから下肢力は坂道を転がるごとく低下してくる。他山の石と言われるほどその事例を見てきた。
健康寿命と下肢力、日常生活の質とは密接な関係にある。今のところ、適度にウオーキングもしているので心配はないようだが、いつの日か本当に動けなくなる時期かやってくであろうが、いかにしてその時期を遅くしどのように深刻な状態にならないように程度をおさえるかは自己との戦いではなかろうか。
わが町の風景
昨日2月4日は、立春、暦の上では春の始まりである。終日風は強かったが、朝から暖かく快晴の1日であり異常なほど温かかった。浜松の最高気温13.8度と3月並みの気温であったとメディアは報じた。日本海を通過する低気圧に南から暖かい空気が流れ込んだ影響とのことである。
午前シニアクラブの定例の月曜会を開き、健康広場においてグラウンドゴルフを行なった。最初にロコモーション体操を行って試合を実施した。前日夜中に降雨があり、グランドは湿っていたが、参加者12名が技を競い、ホールインワン(トマリ)が4人も出た。3ラウンドの試合で、幸運者の1人は3回、もう1人は2回であった。
プレイが終わった後、全員で健康広場の外柵沿いに設けた花ラインに春の菜の花とポピ-の成長を促進するため化成肥料8-8-8 をまいた。シニアクラブの地域への環境美化活動である。
昨日2月3日は節分の日、神社などでは恒例の豆まきなどが行われたニュースを拝見した。わが家では、節分にちなんで家内が作った「恵方巻き」を食べた。 家内が心を込めて作った恵方巻きは孫たちのところにも届けた。私自身は世に言う食べ方などとらわれることなく、手作りに感謝して美味しく食べ満足した。
2年ほど前の節分に、行きつけの専門店の恵方巻を買ったことがあるが、当日は行列ができた評判の店であったことが強く印象に残っている。また、近年のニュースでは、余った大量の恵方巻を廃棄物として処理したことが話題として取り上げられたことが記憶に残る。
わが家では、大抵この種のものは手作りをしている。家内が前日に材料を揃え、節分の当日お昼前に作り上げ昼食として食卓に並べた。恵方巻は具が異なる三種類ほどを作った。私は料理のことは全く分からずもっぱら食べる人であるが、美味しくいただいき感謝あるのみである。
私の記憶では、この種の太巻きの寿司は、昭和初期の子供のころから母親が作ってくれていた。また、家内も自分の母親の手作りを見よう真似ようで覚えていたようだ。俗に「寿司巻」「巻き寿司」と言っており、結婚以来年に何回か季節の節目に手作りしてきた。
総じて、昔からこうした太い寿司巻きはあったが、節分に「恵方巻」と名付けたのは面白い発想であったと理解した。恵方巻きについて、ネットで調べてみたら、諸説があるようだが、一つを取り上げてみた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
恵方巻き(えほうまき)とは、節分に恵方を向いて無言で食すると縁起が良いとされる巻寿司のこと。
「恵方巻」という名称は1989年にセブン-イレブン広島県広島市中区舟入店の野田靜眞が「大阪には節分に太巻き寿司を食べる風習がある」と聴いて仕掛けたことにより、1998年から全国へ広がり、2000年代以降に急速に広まった。それ以前に「恵方巻」と呼ばれていたという文献類は見つかっていない 。その他には「幸運巻寿司」「恵方寿司」「招福巻」などとも呼ぶ。
きが家の手作り恵方巻
2月から3月末にかけては、シニアクラブの活動も他の諸行事と重なったりしてくる。会員の皆さんが混乱することがあるので、2ヶ月間の活動日をまとめて会報することにしました。
新会員の加入は、10月から現在までに5名あり、入会してよかったと喜んで頂いている。しかし、、高齢会員の死亡退会が続いており、横ばい状態である。新年度に入るまでに、地道にさらに会員の加入促進を図っていきたい。
クラブの運営は、会長以下役員が一生懸命に、誠実に奉仕をすることに尽きのることができます。。各ロコモサロンも始まりと終わりは全員で準備をし、後片付けをすることが徹底してきた。全体的にかなり一歩前進したように感じる。