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昭和の航空自衛隊の思い出( 355 ) 市川市防衛庁二俣団地における役員活動

1.   2回お世話になった二俣マンモス官舎団地

   東京勤務の時は、千葉県市川市にある防衛庁のマンモス二俣官舎に2回入居することとなった。1回目は昭和47年(1972)7月~48年(1978)7月まで、東京市ヶ谷の幹部学校における指揮幕僚課程学生の一年間、2回目は昭和60年(1985)8月~平成2年(1990)3月までの東京六本木にあった防衛庁、最初にして最後の航空幕僚監部とその後の調査隊勤務であった。35年余の自衛官生活で、合わせて6年間同じ官舎地区で暮らし最も長い官舎入居年数となった。それだけお世話になり最も縁のある二俣官舎であったと言える。

 今の時代からすれば、部屋数は少なく面積も狭かったが、都心に通勤する交通の便はよかった。むしろ官舎は地方の部隊の方が恵まれており、東京周辺の官舎は老朽化したりで似たようなものであった。入居の区域・階などは受け入れ配分の関係からか部隊等は混合となっていた。 

 真向いは2曹の若い家族で、家内はよくお隣の小さな子供の面倒を見たりしていた。若いころに年配の家族から面倒を見てもらったので、困ったことがあればその恩返しができる年配になっていたからである。勤務場所が全く異なる混合という特性を有する都市部の官舎だけに棟内の付き合いなどは地方の部隊の官舎のように親密ではかなったように憶えている。

 この官舎地区は、当時、確か約1300戸で陸海空の部隊・機関に勤務する隊員が入居しており、巨大なマンモス官舎団地であった。5階建ての官舎が何十棟と立ち並び壮観であった。官舎団地内に二俣小学校があった。今風で言うならば、2階建てのㇲ-パ―があり、集会所もあった。主婦にとってはここで日常の食品の多くは購入することができた。

    ちなみに、ネットで防衛省二俣宿舎の状況を調べてみたら、遥か45年前のことがよみがえった。この官舎地区は、昭和44年に約9.3haの敷地に計30棟、約1,300戸の規模で建設された一団の宿舎であり、防衛省が26棟、厚生労働省が2棟、内閣府が2棟を所管していたと記録されている。その後の本宿舎の廃止・撤去などがどのようになったのは承知していないし、本題ではないので省略する。 

2.   マンモス官舎団地の自治会役員

   航空幕僚監部勤務となって、しばらくしてどのような経緯か忘れてしまったが、昭和62年(1987)には団地の自治会の役員をやるようになった。多分、たまたま当番の組長などになったのではないかと思われるが、環境部長として団地内の清掃、柳樹木の整理や団地の盆踊りでは施設担当となって櫓などの設営を行った。

 当時の写真で見ると、集会室で会議をしたり、責任者となって盆踊りのやぐらなどを小学校の校庭に設営したことが記録されている。昭和50年(1975)、小松基地の官舎地区では自治会副会長、昭和58年(1983)、春日基地の官舎地区ではで自治会長をやったことがあったので、自治会活動には現職時代から縁があったように思える。

 

 

❶ 二俣団地の盆踊り大会の設営  

    昭和62年(1987)には、マンモス二俣団地の自治会の役員をやるようになった。環境部長をして団地内の柳樹木の整理や団地の盆踊りでは施設担当となって櫓の設営などを行った。

 当時の写真で見ると、団地集会室で会議をしたり、責任者となって盆踊りのやぐらなどを小学校の校庭に設営したことが記録されている。

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《 マンモス団地の盆踊りでは、施設担当となり 櫓を組んだり、テントを建てたりして会場の設営をした。》

 

 団地自治会役員の親睦旅行

 

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《 千葉は安房小湊方面に団地役員の1泊旅行した。》

 

3.  現職時代から地域活動への関心と発展

 振り返ってみると、自衛隊時代の自治会・町内会の役員経験から、どの勤務地においても地域における活動に関心を持っようになったようである。職域内の官舎生活だけではなく、こうした機会を利用して、地域社会の諸活動や発展の根源はどこにあるのか考えてきたように記憶している。

 勤務地における様々な地域活動を見聞して、地域における諸活動はどうあるべきか、自治会の役割や活動はどうあるべきか、自分なりの考え方を作り上げていったように思える。

 また、定年後の終の棲家においては、そこでお世話になる限りはそれなりの貢献、役割が与えられたら果たすのが当然の義務であると考えるようになった。根底には、自衛隊勤務を通じて、国の守りは地域や町の安心・安全と発展からと考えていたからであった。

 こうしたことから退官後も自然の流れのように、居住地の自治会の役員に関わるようになり、各種の団体の代表等を務めることになった。

 せっかく団体の代表をやるんであれば、単なる前任者の業務の踏襲や任期を可もなく不可もなしで、お茶を濁す程度ではなく、現職時代に創造・改革を旗印にしたように、積極的に地域の発展につながるものに挑戦してみようと思った。

 自治会長に推挙されてから、町民が中心の「まちづくり委員会」を設けたり、委員が研究・討議して集約した「まちづくり構想」を立案して実行することをしたり、「神原町の歩み」50周年誌を編纂したり、今までメモの申し送りや語り継ぐだけであったものを、自治会及び役員の運営要領を明確にする運用規定を制定したりした。

 町は農村を主体とした集落から誕生したことから、昔からの古い慣習などが残っている中で、よそから移住した者が、今までの発想になかった斬新な「まちづくり」を提案したから多少の雑音や抵抗はあったが、自治会総会の決議を基に各種の事業の大部分を完遂した。

 今では、多くの新しい若い世代・世帯が移入・誕生し、新しいことへの挑戦と変革・改善は当然のこと、当たり前のことと受け止められる時代になった。十年ひと昔と言うが、こうしたことも昔語りとなってきた。

 そうこうしているうちに、先輩たちが逝ってしまい今や、町の長老格の仲間入りする頃になってきた。今度は老害とならぬよう気を付けなければならない歳となってきた。どんなことでも、協力支援はするけど口出さずと戒め、じっと見守ることにしている。世の中はあっという間に、時代とともに進展していくものだと感じる。

 つまるところ、創設期の航空自衛隊に勤務し、常に創造・発展・充実・改革が求められ、新しいものを作り上げる時代に生きたことが自分の物の考え方、生き方に大きく影響を及ぼしたことを知るのである。