昭和の航空自衛隊の思い出(38)   操縦学生から一般隊員として再出発

1.操縦学生から一般隊員へ身分変更 

 昭和30年6月航空自衛隊第1期操縦学生として防府基地に入隊し、幹部学校(その後幹部候補生学校に所属)における操縦学生基本課程卒業した。次いで、浜松基地において臨時英語教育隊で英語課程を学び小月基地において、第1操縦学校の操縦準備課程を経て、いよいよ初級操縦課程に進んだ。

    大空への夢を実現すべく、厳しい操縦訓練に臨むもTー34単独飛行(ソロ、)寸前にピンクカード3枚となり、操縦適性面から「操縦者資格審査委員会」において審査の結果操縦免・操縦学生免となり、「操縦学生」の肩書も取れて、 一般の空士長となった。順風満帆で前途が開け意気揚々に見えた人生航路はたちまちにして大嵐に遭遇し、難破寸前となった。

 

2.  浜松基地の整備学校へ整備要員として着任

     第1期操縦学生として、小月基地における第1操縦学校の初級操縦課程において、「操縦者資格審査委員会」による操縦免即操縦学生免の決定に当たっては、学校当局の配慮より、今後の進路・職種については希望が叶えられて、 昭和32年4月1日付で、浜松基地に所在する整備学校(現第1術科学校)所属となり赴任した。

     一般社会で言うならば、操縦幹部候補生まじかで首になり、いっぺんに平社員になったようなものである。

    それにしても創設期の航空自衛隊は、あらゆる面で逐次整備の段階にあった。その分だけ各分野で新進の先覚者や挑戦者を求め、あらゆるものをおおらかに受け入れる大きな翼があった。まさに発展途上の航空自衛隊であった。

 

3.  わが人生を方向づけた整備学校勤務

 任地の浜松基地は、臨時英語教育隊における英語教育に次いで2度目となった。この基地は航空自衛隊発祥の地であり、整備・通信等の教育のメッカであった。航空自衛官の大部分の者が教育入校・勤務する基地で最も全国で知られていた。

 このときは、浜松基地における勤務がわが自衛官人生を方向づける最も重要な時期と場所になるとは夢想だにしなかつた。

    振り返って見ると、人生とは歩んでみないと分からない不確実な、まさに未知の世界であったと思うほどだ。

    当時、青年自衛官として真っ只中の21歳で24歳の昭和35年1月まで約3年間整備学校に勤務し、わが自衛官生活の基盤が固められた忘れ難い期間となった。

 この3年間を要約すると、浜松におけるわずか3年のうちに急ピッチで展開した充実したでき事と出会いが、がらむしやに進む中でわが自衛官人生を決定づけることになった。

 

❶ 挫折と苦悩から立ち上がった

 大空の夢が破れ、さらには思ってもみなかった操縦学生免という自衛官としては一大事の身分変更に直面した。

    他人には絶対に見せなかったが、整備学校へ着任した当初は、平然として割り切ったつもりが、あまりにも急展開の人生に対して心の内は挫折感と苦悩が波状的に続いた。

   「時間は人を癒すもの」だ。次第に心も安らぎ、現状を受け容れて、精神的にひとつ大きな不動の柱のようなものができていった。 

 

❷ 再びの奮起と新しい進路

 大きな精神的な嵐を克服した後は、逆に負けてなるものかと奮起の心が湧いてきた。その分人一倍熱心に仕事を習得することに傾注した。  

    臨時的に課程入校までの間といわれた学校総務課の手伝いが、私の心を捉え新しい世界がここにある事を知った。

 どのような経緯かは知らないが、手伝っているうちに、学生要員から総務課員に転進したらどうかと勧められた。総務課の仕事は、俗にいう「水が合った」仕事だと感じていたので、快く承諾して正式に学校職員となった。

    ここでもたまたまのお手伝いが新しい進路につながっていった。まさに人生至る所に青山ありである。

 

❸ 自分の足で一歩づつ階段を上った

 学校総務課員として再起、一般隊員として空士長から再出発した。自衛隊は階級社会である。

    操縦学生当時は所定の課程を卒業すれば階級が上がったが、一般隊員の空曹の昇任は昇任の時期ごと学科試験も行われ競争が激しかった。

    曹の昇任は厳しかった。有資格者に対して昇任枠は一定のものであり、挑戦する有資格の先輩たちが多く、御茶をひく経験をしながら3等空曹、2等空曹へと昇任した。

    それにしても、創設期の航空自衛隊は増勢の時期にあり、昇任チャンスに恵まれた時代であつたといえそうだ。

    自らの経験により、空曹・准尉への昇任に対する隊員の関心・心情などを痛いほど知った。

    後年、人事幕僚として、空自の准尉・空曹・空士の位置づけ、地位の向上と人事管理の諸問題に最大の関心を持ち諸施策の実施に取り組むこととなった。

 

❹   優れた上司と先輩空曹の存在

 学校総務課には課長はじめ優秀な人材が揃っていた。特に旧軍の軍歴もあり、新米の私にとっては教わることばかりでひたすらその知識技能の習得と人間の度量・度胸といったものに感服し指導を受けた。

 その中でも、鳥取県出身で同県人の先任空曹福田正雄1等空曹は、人格識見・実行力・統率力・指導力・上司の補佐等抜群で、「部隊等における先任空曹のあるべき理想像」の人であった。

    35年余の自衛隊生活で最も尊敬する先輩空曹を挙げるとするならば,今もって「福田先任」以外にないであろうと確信している。

 後年、航空自衛隊で各部隊等や教育現場で「空曹の在り方、役割」を論じるときは、福田先任をイメージして話したものであった。

 

❺ 学校総務課員として急速訓練

 整備学生要員から学校総務課員に急転向することになった。通常は大抵担当係に指定されて長い間その配置につくのが通例であったが、私だけは総務課における各係を半年ごとぐらいに一巡する特別な急速訓練を受けることになった。

 文書管理・郵政・庶務一般・接遇・印書・タイピストの管理・諸行事の企画立案・規則、命令の起案・命令伝達 ・訓練管理など通常の総務課で担当する業務を全部経験することになった。

    何といっても総務課という全般を見渡せる中枢で勉強できたことがその後いろいろな面で役立ってきた。

 後年、人事業務はもとより総務業務について術科学校の教育担当科長になったりすることに結びついていった。

 

 得難い内務副班長・班長の経験

 営内生活では13名程度の内務副班長・班長として小集団の統率管理を経験した。同じ営内班から多くの部内幹部が生まれた。素質の優れた一騎当千の強者ばかりで寝食を共にした。

 こうした体験から営内隊員のあるべき方向・環境整備・運営から服務指導について自分なりの考え方を持つに至り信念をもって提言したり、指導に当たることにつながった。

 

❼ 地元女性との結婚・営外居住

  2曹になってから縁あって地元浜松育ちの女性と結婚し、営外居住することになった。尊敬する福田正雄先任夫妻の媒酌で昔風の家での結婚式を挙げた。

    世帯をもって充実した公私の生活を始めるに当たって幹部への選抜試験挑戦の決意は強くなりそれなりに準備をして受験した。新婚生活が始まってしばらくしてから合格となり、幹部候補生学校に入校することとなった。

    その後、幹部候補生課程を卒業し、小牧基地の管制教育団の要撃管制幹部課程入校に際しては妻を帯同し、課程を無事に終了した。いよいよ初級幹部として、千葉県の南端・峰岡山レーダ-サイトに着任した。

 妻は第一子を誕生したが産後の肥立ちが悪くあっという間に旅立っていった。わずか結婚2年半にして人生の無常を味合うことになった。人生で最大の悲しみを味わい人の心の深い痛みを知った。

 

❽ 部内幹部候補生選抜試験への挑戦と合格

 飛行幹部候補生となった第1期操縦学生がジェット戦闘機課程で浜松に集結してきた。かって机を並べて競い合った同期生の雄姿を横目で眺めながら、いつの日が追いつきたいと心を新たにした。

 部内幹部候補生選抜試験への挑戦であった。操縦学生基本課程で学んだこと、学校勤務で諸業務に精進したこと、内務班長としての経験を積んだことを活かして幸い合格し、飛行幹部候補生課程に進んできた第1期操縦学生の同期と会いまみえることになった。

    わずか3年であったが、数多くの経験して幹部候補生学校入校によって新たなる幹部自衛官人生を歩むことになった。

 

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 《 副班長をした当時の総務課内務班14名全員、前列左から波野邦彦・酒井源博3曹樋高豊美3曹班長新井孝英2曹・副班長濵田喜己3曹・後列左から川名正人・鈴木義勝・二木博行・内野英昭・竹内・村上汎正・行天正光・横井・小原宏樹の各氏 

 

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《 訓練担当した野外訓練 前列右日野1曹、小原士長、後列右田中1曹、濵田3曹 》