昭和の航空自衛隊の思い出(8) 官舎と地域との交流

1. 自衛隊官舎の自治会組織

     航空自衛隊勤務おける各地の官舎生活は、私の人生に大きな影響を与えた。本来の職務とは違う官舎地域における自治会組織との関わりであった。

 昭和50年第6航空団司令部人事班長(3佐)として赴任した折、野立町官舎の自治会副会長を、昭和58年3月西部航空警戒管制団司令部人事部長(2佐)の時は、原町官舎の自治会長を命ぜられた。

    いずれも官舎地区が単一の町の自治会組織として認められたものであった。 戸数など覚えていないが100戸程度であったように思う。

 

2. 隣接自治会役員との交流

  小松基地勤務における野立町官舎は、5階建官舎で2棟あったように記憶している。当時の自治会の会長は基地業務群司令能登久弘氏であった。補佐役として私が副会長に就いた。

    会長の代理で串町の八幡神社例祭に列席したり、隣接自治会との連携や連絡調整等をやっているうち自治会長等と固い信頼関係を築くことになった。官舎地区の子どもたちにお祭りを楽しんだり屋台引き回しを体験させたいと思い、官舎地区まで回ってもらったりした。こうしたことは初めてのことであったがお互いの信頼関係で円滑に行うことができた。

 当時確か革新系の市長であったように記憶しているが、このように野立町自治会と隣接の町内会とは良好な関係にあり、基地の円滑な運営にも寄与した。

     自衛隊以外のことに疎かった私に地域の自治会の役割、活動について関心を持たせ「自治会のあるべき姿」と「自治会長はどうあるべきか」「自治会は何をなすべきか」といったことについて考える動機付けとなり、退官後いつの日か自分が永住の地で機会があれば、その夢を実現したいと考えるようになった。これが退官後、地域の自治会長に就き、浜松市西区神原町誕生50周年を契機に「神原町まちづくり構想」と取り組むきっかけとなったのである。 

 

3. 小松市の十年会との交流

   官舎自治会の仕事で野立町官舎の隣接自治会の役員と親しくしているうちに、串町、村松町の中堅・壮年で両町の「まちづくり」に熱心な人たちで結成した「十年会」を知るところとなり、請われて飛行隊長の井野英夫(2佐)と一緒に会員になることになった。

 十年会は、官舎のすく隣に住んでおられた金沢大学名誉教授の田中外男先生が会長で会員は串町及び村松町のやる気満々の現職町内会長を始めとする中堅・壮年たちで結成されていた。10前を振り返り、10年先を見通して町の振興発展を目指して研さんに励む人材の集まりであり、当時よくもこうしたグル-プがあるものだと驚いたものであった。

 十年会の会員の職業はまちまちであったが、常に向上心に満ちて愛町心の強いのに感心した。小松基地自衛官が2人加わってお互いに大きな刺激となった。

 特に「自分たちの住む町は将来どうあるべきか」と今でいう先進的な「まちづくり」に目を向けていた点が、ものすごく大きな感動をに与えたものだった。

 自衛隊在任間はひたすら職務に専念し、定年退官後機会があれば、この時の思いを自分の住む町で取り組むことができたらとその後の官舎生活の転勤中にもひそかに胸に暖めることにした。

 こうした点からも自衛隊における転勤、官舎生活は、私に良い刺激と研さん、さらには新鮮で幅広い経験を積ませてくれた。

 

4 . 自衛隊退官後の自治会活動

2014/01/04   y_hamadaのブログの抜粋 

自治会活動(⑴ 神原町まちづくりへの種まき

 
  「自分たちの住んでいる町をすこしでも住みよい街にしたい」誰しもが望んでいる永遠の課題である。昔も今も、これからも、どの町でも時代に応じて自治会を中心にその努力は続けられるであろう。

  

❶.  まちづくりへの種まき

 私は平成17年4月から19年3月までの3年間、浜松市西区神原町の自治会長を務めさせていただいた。

    顧みて己の人生において、自分の住む町の自治会活動を通じて、「まちづくり」に参画し、自治会長として「神原町まちづくり構想」を策定し、これが実現に向かって全力投球が出来たことは終生の思い出であり、ありがたく感謝している。

   一人の力、短い期間で物事が成就することはないが、その時にまいた種が 次世代に少しでもその発想・考え方、思いが伝わり、いつの日か夢がいっぱいの雄大な「第2.、第3の神原町まちづくり構想」が生まれることを乞い願うものである。

    私は、神原町自治会にかかわるようになってから自分の考えを温め、自治会長という立場になったならば、住民の立場に立った、住民の発想・意見要望を取り入れた「神原町まちづくり構想」という種を播くことを考えていた。

 

❷.  まちづくりの夢の原点

    その原点は自衛隊勤務中における各地での自治会活動へのかかわりであった。

    今では「宿舎」ということばが一般的であるが、当時は「官舎」という呼び方が言葉がぴったりであった。緊急対処できるようできる限り部隊に近い国有地特定箇所に官舎が建ち並び一つの社会を形成していた。

 官舎地区というと、堅ぐるしいところでで閉鎖社会のように思う向きもあったかもしれないが、意外に自由な雰囲気で団結力があった。

    特に大規模な官舎群となると公務員官舎が5階建数十棟も立ち並び、町を形成していた。行政上も単一の自治会として取り扱われていた。

   千葉県市川市の市川官舎では千戸以上で国有地に小学校があるくらいで、自治会の環境担当、石川県小松市の野立町官舎は自治会副会長、福岡県春日市の原町官舎は自治会長を経験し、他自治会との交流・活動・会議参加等を通じて、各地の自治会活動を見聞した。

    こうした経験から次第に自治会活動・運営に関して「かくあるべきではなかろうか」といった自分なりの考えを抱くようになっていた。

    したがって、自衛隊退職後、神原町の住民となってからは、平素から神原町の将来と現状について、深く関心を持ち見守ってきたのである。

  

❸.  お隣の小松市串町町内会との付き合い

    特に、自衛隊現役時代に感銘を受けたのは、昭和50年7月から52年7月まで2年間、石川県小松市の第6航空団司令部に勤務した時である。

   野立町官舎に入居したおり、自治会の副会長に人事班長であった3佐の私が任命された。会長は基地群司令能登久弘1佐であった。

     副会長として、お隣の串町町内会と連絡調整を行っている内に首脳部はもとより串町、村松町の重鎮たちと親密となり、いろいろと相互に協力支援をするようになった。

 

❹.  感銘を受けた小松市の十年会

    そんな奇縁で、浜松市串町、村松町の「十年会」に、個人の資格で飛行隊長井野英夫2佐と私の2名が参加することになった。

    「十年会」は、串町、村松町の中堅・壮年の人材が集って、10年前を振り返り、10年先を考えてまちづくりをしょうと志す有志の団体であった。

     十年会会長は串町に住む金沢大学名誉教授田中外男氏で毎月いろいろな講師を招いて定例の勉強会を行っていた。

    時の小松基地司令園部昌光将補に講演していただいたり,家族同伴で基地見学したこともある。

     私が感動したのは、当時の状況からよくも串町と村松町の中堅・壮年が自分たちの町の将来に向けた「まちづくり」に真剣に取り組んでいる姿であった。

    このような人材がいたら、きっとこの串町、村松町の将来は明るいと確信したものであった。

    転勤後もご交誼をいただいた諸兄は町の有力者・指導者・町内会長となっていった。

    私がこころざした「まちづくり」の原点は、「十年会」の皆様の愛町心・意欲・情熱・行動力・発想力・団結力を学んだことからはじまったのである。

 当時十年会の中澤勇次氏、若林喜一郎氏、八十山辰雄氏、中田一男氏、分校外茂治氏、松本昭夫氏、川上正信氏、麻田孝二氏のほか皆様に大変お世話になった。多くの方が町内会長や町内会の主要な役員に就任され、当時描いた夢を実現されていかれた。実に、郷土の振興に熱心な指導力のある方ばかりであった。すでに鬼籍に入られた諸兄に対して心からご冥福をお祈りいたします。

 

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《 十年会 会員及びこ夫人の基地見学 》

 

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《 十年会の会員及びご夫人の基地見学 》