昭和の陸上自衛隊の思い出(1)  裸一貫で自立を目指した入隊

1.    進路で苦悩した末の自衛隊入隊

    昭和29年春鳥取県倉吉東高校普通科を卒業した。だが進学組にいながら3学年後半から進路変更で悩んだ末、色々模索し挑戦して見たが上手くいかず、一般大学は受験せずそのまま卒業した。

    最終的な結論は親の庇護から自立し自分の人生を切り開くことに決心した。その結果が陸上自衛隊入隊であった。

    昭和30年1月入隊するまでには家にいたり、社会体験で大阪の工場で働いたこともある。親はじっと静かに見守ってくれたのが嬉しかった。

    自衛隊は少年の頃から関心を持っていたので、熟慮した自分なりの決断であったのでその後は全力前進することになった。

    また、陸上自衛隊入隊の前後、戦後初のパイロット航空自衛隊の新制度「操縦学生」が創設されることとなり、その採用試験(3月1日)に挑戦するという新しい展開が待っていた。

 

2.  入隊した米子駐屯地

 ❶  昭和30年入隊した米子駐屯地

 自衛隊勤務の振り出しは、昭和30年1月17日陸上自衛隊入隊に始まる。鳥取県の米子駐屯地にある米子臨時新隊員教育隊に入隊した。

     米子駐屯地は米子市両三柳にあり、米子駐屯地のホ-ムぺ-ジの写真のように大山、日本海に連なる風光明媚な弓ヶ浜半島が眺められる素晴らしい駐屯地である。

     昭和25年12月、旧逓信省航空機乗員養成所跡に警察予備隊米子駐屯地として発足した。その約4年余後にこの地に入隊したことになる。

    当時、駐屯地は新隊員があふれ、活気に満ち教育訓練に明け暮れた。先輩たちはどんな勤務をしているだろうかと関心があったがじっくりと見る暇もなかった。約1月後ぐらいに始めて米子市内に外出し、お城近くにあった営外クラブを利用した。

    60年前のことでかなり記憶が薄れてきたが、駐屯地の北は松林地帯で、近くに皆生温泉があったことは鮮明に覚えている。

 

❷米子駐屯地ホ-ムぺ-ジから 

 60年前の歳月が経てば、一昔前のことなので、米子駐屯地のホ-ムぺ-ジを開き一部を紹介する。 これで見ると私が入隊した昭和30年1月は連隊、大隊の改称が行われている。

 わが郷土鳥取県に第8普通科連隊が駐屯していることを心強く思う。県民に親しまれる「郷土部隊」として定着していることに歴史の重みを感じる。

 いつかは一度米子駐屯地を訪れ、わが青春時代の出発点を確認してみたい郷愁にかられる。

米子駐屯地の沿革
皆生海岸と大山

 米子駐屯地は東に大山、西に島根半島、北に日本海を望む風光明媚な弓ヶ浜半島の基部にあり、昭和25年12月、旧逓信省航空機乗員養成所跡地に警察予備隊として発足、約1,000名で創設されました。

 

乗務員養成所跡石碑
昭和25年 8月  米子市議会が警察予備隊の駐屯を要請
  〃   11月  海田市から36名の設営隊到着
  〃   12月  舞鶴市(松ヶ崎キャンプ)から989名移駐
 呉市(広キャンプ)から15名移駐
 逓信省航空機乗員養成所跡地に警察予備隊米子駐屯部隊新編
昭和26年12月  米子駐屯部隊は、第8連隊第3大隊と改称
昭和27年 1月  第8連隊3大隊は、第7連隊第2大隊と改称
昭和30年10月  第7連隊第2大隊は、再び第8連隊第3大隊に改称
昭和37年 1月  第13師団創設に伴い、第8連隊3大隊を基幹部隊として連隊本部が海田市から、第1大隊が出雲から移駐し、現在の名称「第8普通科連隊」として新編
昭和50年 3月  第8普通科連隊本部及び本部管理中隊改編
平成11年 3月  師団から旅団への改編により軽普通科連隊化
平成20年 3月  13旅団改編(即応近代化旅団)
平成22年10月  米子駐屯地創設60周年
  

 3.裸一貫の出発  持ち物はトランクと参考書

   入隊するや制服・靴等いつさいが支給されたので、家から着てきた洋服・靴等の私物一切を自宅返納した。それこそきれいさっぱり「裸一貫」であった。   

    唯一の財産は、新品のトランクとそこに入った高校の時使っていた参考書のみであった。

   大学進学を諦めたがいつの日か学校に行こうと思っていたこと、また、操縦学生の受験勉強などのために持っていたと思われるが、向学心を失わなかったことが、その後大いに役立つことになる。

     後年、家庭を持ってからもこの「トランク」はわが家のお宝的存在であったが、余りにも古びて壊れてきたので最後は処分した。

     裸一貫のゼロからの出発であったから「トランク」は自分の人生の証でもあった。思い出がいっぱい詰まった「トランク」でもあった。今にして思うと惜しいものを処分したと思う反面、人間最後は「裸一貫」になって人生を終えるのだからそれでよしと思うようになった

 

4.教育中隊

 米子臨時新隊員教育隊の第1中隊は、中隊長、小隊長、先任陸曹、班長(陸曹)、班付(士長)の指導体制のもと新隊員約30名であった。1個班約10名であった。

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《 昭和30年1月米子臨時新隊員教育隊第1中隊、当時の制服は胴体を締めるタイプであった。 》

 

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《 班のメンバ-、4月入隊は新卒が主体であったと思われるが、1月入隊であったので一番歳が若かった。年長者で社会経験のあるものが多くいろいろと教わることが多かった。2月の厳寒の野外訓練を乗り越えた。3カ月の前期訓練で起居を共にし一体感が増した。前列左端・皆に良くしてもらった思い出が残る。 》