昭和の航空自衛隊の思い出 (1)  自衛官人生航路

1.   人生万歳!人生至る所に青山あり

    誰でも人生は多かれ少なかれ波乱万丈である。最初は小舟で恐る恐る大海に乗り出した航海のようなものだ。

    幾たびか絶えず大海を航海するうちに、次第に歳を重ね、豊富な経験を積んで、精神・技量が向上し、自信もついて度胸も座ってくる。

    大海の航海は凪もあれば嵐もある。潮、風、雨、波など自然の脅威は計り知れないものがある。

    段階を追って、大型船に乗り変えていくのともある。

    傘寿・80歳が近づく歳になって振り返ると、現役時代の人生は波乱万丈、至る所に青山ありであったと思う。

 

2.  わが自衛官人生いろいろ

    私の昭和30年1月自衛隊入隊から平成2年4月定年退職するまでの35年間の自衛官人生も起伏が激しくいろいろな出来事があった。でも振り返ると、充実した自衛官生活であったと満足している。

     航空自衛隊で入隊同期といえども職種・部隊が違うだけでも歩んだ道はさまさまである。人の歩みは同じでない。一人ひとりが異なった人生航路であったから語ることもできるのであろう。

     今の時代と違い、海外の国際貢献も平成23年3.11のような大震災出動の体験はなかったが、創設期の航空自衛隊の基盤づくりの一端を担ったことは誇れることであった。

  

3.わが自衛官生活の総括と特色

自衛官生活35年を総括してみた。

大空の夢の挫折と新天地

 昭和30年1月入隊、陸上自衛隊は僅か5か月であったが、航空自衛隊と二つの自衛隊を勤務し得難い経験した。昭和29年春高校を卒業して、最初の数年間に、自衛隊で厳しい教育訓練を体験したこと、大空への夢を抱いた操縦学生から中途で免となり、冷徹・無情・挫折を経験したことが、どんな苦難にも立ち向かう勇気と度胸をつけ、その後の人生に対して非常に役立った。

    それは、昭和30年6月パイロットを目指し第1期操縦学生として入隊するも操縦訓練中途で、多数の同期と共に操縦適性面からエリミネートされ身分変更・転進となり、「操縦学生空士長」から「空士長」と一般隊員の道を歩んだ。

   当時、戦後初の「操縦学生」新制度であり、防衛計画の変更と言った時代の流れに翻弄され、身分が一変する余りにも過酷な出来事に直面し、奈落の底に突き落とされる試練であったが、創設期の航空自衛隊には新天地が幾多もあり、悲観から希望へと転進し、谷底から這い上がる逞しい自衛官となった。まさに「厄を福に転ずる」ことがてきた。

 

❷ 人生の無常と信念等の確立

 自衛隊入隊の動機は、経済的に親から自立する、少年時代から自衛隊に関心があり、将来をかけてみようと思ったことにある。

   自衛隊において教育訓練、防衛の実任務に就きながら思索・研究・経験を重ね、与えられたものでない自分で作り上げた自分なりのの愛国心・使命感、職業観、人生観、大きくは世界観、社会観・戦争観を確立し不動のものとした。

 その間、家庭を持ち初級幹部となりこれからという矢先に、妻は第一子出産後、産後の肥立ちが悪く、あっという間に逝ってしまった。若い時代に人生の無常と人の運命のはかなさを味わった。

 このことにより家族を失うことの人の痛みなど人一倍思いやる心が強くようになった。操縦学生の挫折、妻の急逝などを経験したことが精神的に人一倍強くなり強固な信念・物の見方・考え方を持つようになった。その後、再び安定した家庭生活を営み今日に至っている。

 

創設期の空自任務に従事

 今年、昭和29年に発足した航空自衛隊は創立60周年を迎える。昭和30年6月から創設期・建設期の航空自衛隊に勤務し、充実発展の基盤づくりに従事することができた。時あたかも時代は創設期にあり、それぞれ空曹、幹部として大いに活動する場と機会が与えられた。

   一般隊員として、わき目を振らず黙々と部隊勤務しているうちに空士長から2等空曹へと昇任し,次第に操縦学生として学んだ教育訓練の成果を発揮する場を与えられようになったのである。

 それは部内幹部候補生選抜試験の受験資格が出来るや挑戦し、エリミネートされた多く操縦学生同期と一緒に一回で合格し、既に幹部候補生学校の飛行幹部候補生課程に入校した同期生の後に何とか続くことができた。

 

各級部隊等の幅広い勤務経験

 昭和35年部内の一般幹部候補生選抜試験に合格し、幹部への道を歩んだ。空曹時の総務職域から要撃管制幹部、更には人事幹部・幕僚となった。作戦運用と管理部門の双方を経験したことが役立った。

 部隊等は、末端の小隊、隊の勤務から始まって群本部、団司令部、方面隊司令部、総隊司令部、航空幕僚監部と、一番下から一番上までの各級司令部勤務を経験した。このほか飛行教育集団司令部、術科学校、教導高射隊、調査隊を勤務した。転勤は2年に1回程度であった。

 小松、春日基地では官舎地域の自治会の副会長、自治会長もやり隣接町内会の役員と交流することができた。

 

❺  指揮幕僚課程の修学

 航空自衛官生活の中で、幸運にも部内幹部候補生出身者から指揮幕僚課程(CS)選抜試験に合格して、1年間市ヶ谷台の航空自衛隊幹部学校で学んだ。

    1等空尉に昇任し、年齢制限から1回だけ受験のチャンスがあったので、1次の学科試験に挑戦したところ合格し、2次集団討論、面接試験に臨み、入校者40名に名前を連ねることになった。

     第21期CSで防衛大学、一般大学、航空学生出身に混じり、歳は一番上で異色の存在として勉学に励んだ。

     空自を背負う優秀な人材と一緒に研鑽に励んだことは自衛官人生で忘れられない思い出の一つである。

    CS同期から多くの将官が生まれた。CS卒業後は各級司令部勤務を歩むこととなり、指揮官から幕僚として存分に腕を振るう機会を与えられた。

    卒業後、一番のお宝は、どの職務についても何よりも上下から「信頼」されたことであった。   

    後年、指揮幕僚課程学生選抜試験の委員を命じられ、職域の問題作成・採点 をする機会もあり、実に厳正な試験管理を垣間見ることもあった。   

 

❻  長年の命題の取り組みと実現

 航空自衛隊で、2等空士から1等空佐までの階級を経験したことはありがたいことであった。

    それだけの経歴管理ができた航空自衛隊の人事管理の素晴らしさがあったからであろう。人はそれなりのポストが与えられて実力・能力を伸ばし発揮することができる。

   今まで鈍行路線を進みながらも指揮幕僚課程を卒業したせいか、部内幹部候補生出身としては最高の地位に昇進する恵まれた一人となった。

    大部分が各級司令部の指揮官を補佐する幕僚勤務であったが、部長等として担当業務を通じて策案を提案し実現する機会に恵まれた。

     優れた指揮官のもと思い切り手腕を発揮する機会を与えられたことは最高の幸せであった。

 それは、  空士・空曹と叩き上げの自衛官として、長年にわたって胸に秘めて研究課題としてきた「准尉・空曹の地位の向上と諸問題の解決」や「指揮・運用と一体となった人事業務の推進」などを空幕人事2班長、司令部人事部長として精魂をこめて自分なりに努力し成果をあげることに努めた。

 

 次回からは、わが自衛官人生を取り上げながら、当時何を考え、悩んだのかなど自衛隊の状況など思いつくままに綴ってみることにする。