令和元年度第22回浜松市花と緑のコンクールの入選・受賞者が、11月15日發表された。
地域の部において、神原町から花の会とシニアクラブが優良賞と奨励賞を受賞することになった。高齢者集団であるシニアクラブが活動の一つとして独自に花いっぱい活動を行うのは珍しい方かもしれない。
神原会は、来春から「ありがとう花壇」で再出発する。地域への感謝と環境美化への奉仕を高麗者の立場で実行するものである。今回の奨励賞は新しい発想と従来からの花活動の継続にさらに励みとなることであろう。
秋の深まりは 猛スピ-ドで進んでいる。日中は好天に恵まれたが、朝晩の冷え込みは厳しい。11月15日午前、墓参りを兼かねて夫婦で神ケ谷方面を散歩してきた。田舎道を歩いていると草木から四季の移り変わりを感じ取ることができる。往復2時間半ほどであるが、歩くということはいかに大事か骨しみて感じるようになった。
食欲は十分にあり、逆に体重の増加がありそうだ。天龍山洞雲寺の本堂等の再建工事は順調に進んでいるようだ。
第14回東海鴨水会(鳥取県立倉吉東高)同窓会(会長八嶋 厚氏)の総会・講演会・懇親会が、11月9日(土)17:00から名古屋市中区錦の東京第1ホテル錦で行われ初参加した。
東海鳥取県人会、東海鴨水会の可世木博氏には、浜松鳥取県人会の総会・懇親会に来賓としてご出席いただいており、毎回、東海の鴨水会及び鳥取県人会へ参加案内をもらっていたこと、その盛況ぶりは参加者から聴いており、機会があれば、ぜひ一度は参加したいと思っていたからであった。
母校の鳥取県立倉吉高等学校は、明治42年開校、昨年創立110周年であった。同校を昭和29年に卒業して半世紀以上の歳月が流れたが、鳥取県の中部に位置する倉吉市にある「文武両道」と「自主自立」の進学校で学んだ高校時代は懐かしいものである。
若い頃から鳥取に帰省したら、用事を終をえてから、必ず倉吉の街並みや打吹公園を散策し、打吹だんごを賞味したものであった。
航空自衛官の現職時代は、府中の航空総隊司令部勤務及び桧町の航空幕僚監部、航空自隊調査隊に勤務した当時、在京の鳥取県人会、倉吉東高のニクメンバ-会によく出席したが、定年退官後は歳を重ねるにつれて参加の機会が減ってきた。
今回、東海鴨水会(倉吉東高)同窓会には、大東亜戦争時代に鳥取県から輩出した文部大臣橋田邦彦先生に関する講演があるというので、参加することにした。
先ず、案内状を手にしたときに、元文部大臣橋田邦彦先生に関する講演があることで、子供の頃ではあったが、当時のことをおぼろげながら覚えていたので、パッと橋田元大臣にまつわる事柄がすぐに浮かんてきた。
橋田邦彦元文部大臣については、
❶小学生の時に、二つ隣村の長瀬村から初めて大臣が誕生したと話題となったこと、学事視察で鳥取県訪問の折、わがふるさと宇野村安楽寺を訪問されたこと、日の丸の旗を持ってお迎えしたことがあったように憶えていること、また、終戦直後、戦争犯罪人の指名を受け、自宅で自決をしたこと。
❷羽合中学時代に長瀬にある橋田邸の長い立派な塀が今日に至るも強く記憶に残っていること、とりわけ郷土から誕生した初の大臣の家であるとのことで、羽合中学、長瀬小学校に近く、興味深く塀の下をよく通ったことがあること。
❸手元にある郷土史「羽合町史」に「文部大臣橋田邦彦」に関する記事が14ぺ-ジにわたって記述されており若い時代から関心があったこと。自決に至るまでの状況は、「羽合町史」に詳しく記述されていて、文相の学者としての信条、人生観からくる「勝者が敗者を裁く、不公平な取り扱い」に対する思いなど理解できるものがあった。
❹橋田邦彦先生の妻となるきみゑ夫人が宇野村の安楽寺からの出であること、安楽寺は子供の頃、夏は境内で盆踊りをした。また、毎年おたいやの時期は、父に連れられて法話を聞きにいったことがある、などがあった。
さらに、常々、東海鳥取県人会、東海鴨水会の世話役をされている医師可世木博氏の故郷鳥取に寄せる熱烈かつ献身的に尽力されている人柄に惹かれていたことなどがあり、ぜひ講師倉吉図書館長山脇幸人(倉吉東高昭和54年卒)の講演「橋田邦彦とその周辺」を拝聴したいと思った。最近は、家人からの願いもあり、年齢的なことを考慮して一人での夜間の遠出はしないことにしているが、今回だけはと浜松から出かけた。
久しぶりに、名古屋に新幹線で出かけた。名古屋駅の観光案内所で地図と地下鉄の乗り場の説明を受けて、地下鉄東山線に乗り、栄で降りた。
地上に出たらホテルの場所がわからないので。ホテルへ2回電話で方向を教えてもらいたどり着いた。最近は静かな田園地帯で暮らしているせいか、車と人混み、騒音を久しぶりに味わっことになった。
橋田邦彦先生に関する話を拝聴すると共に久しぶりに、母校の校歌と応援歌を歌い、高校生時代を思い出したものである。参加者の中では、昭和29年卒は古くなったが、しばし青春時代にかえることができ元気をもらうことができた。郷里のお酒を飲み、懐かしのちくわを食し、楽しいひと時を過ごして浜松に帰ってきた。
1 総会・講演会・懇親会の次第
《昭和36年(1961年)橋田邦彦の遺徳顕彰会が打吹公園に建立した頌徳碑》
2 来賓及び役員
3 全員の記念撮影
4 総会・懇親会の模様
4 総会
❶ 司会 可世木 博氏) (昭49卒)
❷ 会長挨拶 八嶋 厚氏 (昭50卒)
❸ 来賓挨拶
〇鴨水会副会長 手石 幸洋氏 (昭44卒)
〇 倉吉東高 教頭 桧 佳憲氏
❹ 議事 会計報告等
5 講演会
❶ 演題 「橋田邦彦とその周辺」
講師 倉吉市立図書館・館長 山脇幸人氏(昭54卒)
「橋田邦彦とその周辺」について、橋田邦彦先生に関する要約、年表、レジメの資料配付とプロゼクタ-を使って、熱誠を込めて講演をされた。
特に、橋田邦彦先生の研究者としての功績、教育者としての功績、東洋思想・仏教への造詣から「正法眼蔵」の研究などの功績を強調された。短時間のうちに要領よくまとめられ、素晴らしい講演内容であった。
❷ 文部大臣の就任と自決について
橋田邦彦先生の文部大臣の就任と自決については、羽合町史(羽合町は、町村合併により、「湯梨浜町」となる。)が記述しており、今日から見ても適正な評価であると考えるので付記した。
【所感】
講師は、東條内閣の一員となった橋田文部大臣が、敗戦直後、占領軍の戦争犯罪人の指名により自決に至った経緯などについては、あまり触れられなかった。門外漢のわたくしから見ても、橋田邦彦先生の功績は絶大なものがあり、戦争犯罪人の指名は不当なものであったように考えるが、当時としては占領軍の支配下にあった。
橋田邦彦先生の学者・文化人・政治家としての本領はいささかも変わるものがないであろう。
大東亜戦争一つとっても、歴史観によって、その見方と評価は大きく異なることがある。特に大東亜戦争の評価については、敗戦により勝者が敗者を裁いた歴史観は徹底したものであった。戦後のわが国の憲法はもとより政治・経済・社会・教育・文化などすべてにわたって徹底して勝者の立場からの改革が行われたからである。
【追記】文部大臣就任と自決 羽合町史から転載
《 羽合町史 758~759)ぺ-ジ転載 》
6 懇親会
❶ 乾杯 西村 憲一氏 (昭27卒)(最古参年次)
❷ 来賓挨拶
〇 鳥取県名古屋代表部所長 吹野 之彦氏
〇 関西鴨水同窓会会長 立石 斉氏 (昭40卒)
〇 東海鳥取県人会・事務局長 伊藤 巧氏
❸ 懇談
❹ 自己紹介 省略
❺ 校歌・応援歌
7 参加写真
❶ 自己紹介
❷ 昭28 ・29卒の懇談
令和元年度第52回浜松市高齢者の作品展が11月14日〜18日まで浜松市福祉交流センタ-で行われる。この「浜松市高齢者の作品展」は、浜松市及びシニアクラブ浜松市が共催するもので、年に一度、趣味活動の増進を目的とするものです。
今日は午前、作品展に写真2点を搬入した。写真は、元旦の初日の出を主題としたもので、「初日の出の歓喜」と題した。
高齢者作品展には、毎年、地区連合のシニアクラブ神久呂の会員の皆さんに出展を呼びかけてきた。以前は各クラブから多数の出展があったが、最近の傾向としては、出展数が減少しているように見受けられる。
神原町シニアクラブからは、今回は4名・7点を出展した。絵画2名・3点、手芸1名・2点及び写真1名・2点である。
全体としての出展作品数は、パンフレットによると583点である。開催期間に訪れて、じっくり全部を観て回りたいと思っている。
毎年2回実施している恒例の神原町及び大久保町カラオケクラブの合同発表会が11月13日午後6時30から神原会館で行われた。神原町から10名、大久保町から11名が日ごろの練習の成果を披露した。
今回は、作詞仁井谷俊也、作曲四方章人、編曲前田俊明、唄福田こうへいの「道ひとすじ」を歌った。なかなか文句もよく、男らしく力強い演歌で、この夏の課題練習曲であった。
毎月の課題曲は、男性歌手の唄う曲から選ばれている。好き嫌いに関わらず全部練習し、最終的には自分にあった曲を長く唄うことにしている。総括すると人生を力強く生きていく歌詞のものを選んでいるようだ。
カラオケを歌うにあたっては、歌詞をはっきりと発声することに着意した。いつもながら腹の底から声を出すことに努め、自分の健康にしっかりとつながっていると確信している。みんな自分の持ち味を発揮し上手で勉強になった。有意義な夕べのひと時であった。
最後に、葵恵子先生が2曲披露された。
11月10日(日)午前8時から9時30分まで、恒例の神久呂青少年健全育成会主催のピカピカ大作戦が、園児、小学生・中学生、その保護者、あかつちの会会員、シニアクラブ会員、一般地域住民、約600名参加し、西山町・大久保町・神ケ谷町・神原町の各町で行われた。準備段階は健全育成会役員が主として進め、当日の清掃作業の組み分けや実施要領については、あかつちの会の先生方の指導で行われた。
シニアクラブ神久呂会長として環境浄化部に属し、委員の一人として参参画し、西山町及び神原町の実施状況を巡回した。
子のピカピカ大作戦は、平成14年にあかつちの会の10周年記念事業から発し、平成15年健全育成会とあかつちの会の共催で始まり、後年、健全育成会の事業として今日に至っている。
平成15年共催の初年度の健全育成会側の担当として、あかつちの会担当金田智久先生と協力し合って実施して以来、16年の月日が流れた。時代の経過とともに改善されたもの、やや形骸化してきたものなどが見られる。将来のために、後日、発足当時のことをこのブログに記録しに参考に供したいと思っている。
❶ 開会
❷ 出発
❸ 閉会
11月11日(月)午前7時15分~7時45分、神久呂中学校区青少年健全育成会(神久呂の子をよくする会)主催(会長松本廣一氏)の 令和元年度「ひとりひとりにいい声掛けデ-」に参加した。朝の挨拶運動は青少年の健全育成活動のひとつであり、地域の諸団体等が積極的に参加している。健全育成会においては、地区連合及び各町のシニアクラブの会長は同会の役員・委員となっている。
今日の「ひとりひとりにいい声掛けデ-」は、神久呂中学校・神久呂小学校・神久呂幼稚園・神田原保育園において行われた。当該の町に住んでいる役員・委員・保護者がそれぞれ分担して声掛け活動した。
挨拶は社会生活の基本であり、人間関係の潤滑油でもある。子供たちと地域住民がお互いに挨拶を交わしており、神久呂の子どもの優れた点であろう。
神久呂小学校の声掛け活動